弟子のSです

武術の稽古日誌

「不器用な女ですから」?

武術家とは、剥いても剥いても武術家が出てくる人のことではなく、武術を身につけた人、黒子のこと。一体化しているが一体ではない。師は次の二重構造でできているという。

・武術の権化である佐山先生、師(「公」の部分)

・武術の権化でない佐山という人(「私」の部分)

弟子の私にとって師は言うまでもなく武術の権化であり、今までもこれからも、どんな場面においてもそうした存在でしかあり得ない(断言する)が、師の指摘によれば、それを偶像化というのだそうだ。二重構造になっていることを理解し受け入れること。

二重構造だからこそどんなビビリでも泣き虫でも、その人そのままで武術家になりうるのだ。しかし私は、自分自身が二重構造でない(と思う)のでそう言われても理解できない。ビビリが武術家になったら、それはかつてのビビリとは別物になった、武術家のビビリになったということだ。そう思う。だから師だっていくら剥こうが私にとっては師しか出てこないだろう。というか、出てくるものが師だと思うだけのことだ。私は弟子だからである。

自分は一枚板だ。二重構造とかたぶんこれからも実感のレベルではわからないと思う。でも師が仰るのだからそれはそういうものだと受け入れる。やわな一枚板が屈強な二重構造に対峙しているのだから、遠い、届かないと感じる瞬間は無数にある。それでも2年前とは違う考え方をする自分がいる。それだけ後に引けなくなったとも言えるが。

また師は、弟子には本人の欲求・感情にかかわらず必要なものを与える、それが生徒との扱いの違いだと仰った。逆に言えば弟子は、自身の欲求・感情が師によって満たされることがない。望んでも絶対に叶わない。「自分を投げ出す」とか「出家」とはそういう意味合いにおいてである。

弟子だからといって特別なことは他に何もない。

なにしろにっちもさっちもいかない感じだが、つまり感情はどうでもいいのだ。私に必要だと師が判断したことを私はする。内観し価値判断しない。稽古に集中し熱中しない。それから仕事をして、家事をする。どこにも行けないと感じることは、どこにでも行けるということだと師は言われた。以前の自分と今とは違うから、今と未来の自分も違うだろう。私は面白いこと楽しいこと、穏やかでのんびりして、笑えることが好き。にんげんだもの

悲しい時は、思いっきり悲しめばいいのです。(A. アドラー