弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

ケント紙とスクールペンに青春を捧げた私にとって隠し球のような漫画家の単行本を、貸そうか貸すまいか年単位で迷った末に先日思いきって師にお貸ししたところ、あっさり中1日で返ってきた・・・・・・・・・・・。

好きな映画の話をしたり、本やCDを貸すって自己紹介のようなものだと思う。人と付き合うというのは相手と自己紹介しあうことだとも言えるだろう。私は師に対しては、屈託なく自己紹介できる気分から長〜〜く遠ざかっていたから、何はともあれ貸せてよかった。今日の稽古内容である「受容」とも関連するように思われる。

護身術+太極拳

護身術は寝技。起き上がってくるのを押さえる/胸と胸を合わせて押さえ込む/押さえられた状態から脱ける(エビ)/仰向けに倒したのをうつ伏せにひっくり返して押さえる/ガードポジションからひっくり返す/袈裟固めからの極め技5種/首を押さえ込まれたのを外す。

最後に、両肩を押された状態のまま座ってあぐらをかき、そこから起き上がるという稽古をする。相手と自分をひとつながりの構造、フレームに見立てることで、押す力と均衡をとる。

太極拳では推手の稽古の一環で、受容ということ、合わせた手と手が力でぶつからないよう、感触に耳をすましながら動かすというのをやる。師とは指と指を合わせ、間に花びらが挟まっているのをイメージして、それを落とさないように動かす稽古をする。「してみると、推手というのは美しいものだな・・」とか「共同作業か・・」「コックリさんとの違いは・・」など、言葉による疑問は尽きない。

師は受容ということを、おヨメさんを迎えたシュウトメの対応に喩えておられた。すなわち、ヨメのつくる料理を「うちの味と違う」と拒むのではなく、その味はその味として受け入れつつ、うちの味はこれなのよ、と相手に伝えることも止めないという。

その後1時間課外授業を受けさせてもらい、師と瀬尾さんとつづきをやった。推手で、力でぶつかるのと受容するのと、接触点での感触の違いを何度も確認する。力が当たるのは硬質な感じ、片やじゅわっと、細胞の穴から力がベクトルとして侵み込んでくる感じ? 違いはわからなくもないのだが、自分ではできない。瀬尾さんはできていて、師と二人でハイレベルな、サイキックともいえる戦いを静かに熱く繰り広げている。さみしい。

ぶつからない、受容するというのは、やられっぱなしになるのとは違う。相手を手の平で遊ばせるのとも違う。相手に対してぐにゃぐにゃになるのとも違う・・・。優位に立つとか、勝ち負けとか、脱力とか、そういう類の話ではない。(そうした相対性の)100から0のグラデーションの間のどこにも答えはありませんと師は言われた。だけど・・・だったら、お互いがお互いを受容しているなら、何がどうして決着がつくんだろう。その前に、受容という言葉を私は正しく解釈しているだろうか。

言葉で出す答えはすべて間違いだと知りながら心に浮かぶ疑念を黙っていられない私に師は、今のあなたが知らない感覚を知ろうとしてるんだから、知っている言葉でそれを表現できるわけがないと仰った。瀬尾さんも、いろいろ言うけど接触点の感じが全部ですと。そうなんだろうな・・・。そうなんだろうなということしかわからない。

うわああ〜〜〜〜!!