弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古

武術90分、スポセンにて。ストレッチをしていたら師が早めにいらして、時間前になんと組手でウォーミングアップ。始まる時刻には息切れしていた。

金曜日のつづきで、指一本で聴勁により相手の胸元を突いて崩す。シンクロする感じが未だ得られず。その後接触点をひざ下に移し、足を合わせて崩す稽古。それから対向して、突きを聴勁で防ぐ。慣れたら一挙動で防ぐと同時に攻める。

瀬尾さんの胸元に指を当て例によって難儀していると、師が私の後ろに立ち、背中に手を当てた。師が私を介して瀬尾さんを押す形になった。するとぐらりと瀬尾さんが倒れた。

それから対向した相手のひじに前腕部を当て、単鞭下勢の要領で下に落とす。次に裏から、一教の要領で二の腕の痛いところを手刀で擦り上げて下に落とす。相手が耐えたら逆方向の背中側に引き倒す。

単鞭下勢は相手にもたれて力んで落とそうとしたら耐えられて絶対にうまくいかない。ひじの接触点から聴勁、じわりとシンクロして、ただ腰を下に落とす。師に介助されて正しい形でやると「ぐあっ」と言って(私の力ではびくともしない)瀬尾さんが崩れる。

ここで目を輝かせて「ワンダフル!」と言えないのが私だ。私は・・呆然というか、憮然としてしまう。

見たままをやればいいのに、私にもできるのに、要らないことをするからできないのだという。師が手助けしている時といない時とで形が全然違っているそうだ。

それから捨て身投げをいろいろやった。引き込んで相手のおなかに掌とひざを当てて投げる/相手のひじを抱えて仰向けに倒れ手枕/カニ挟み、耐えられたら反対側に/ビクトル投げ。(あともう一つあったのが思い出せない。後ろ受身をとりながら投げるやつ)

捨て身技というのはうまく受身をとらないとただの自爆になってしまうが、ビクトル投げなど、相手もろともいざ前回りというと、どうも頚椎損傷→寝たきり、というイメージが脳裏に浮かび怯んでしまう。それで却ってうまくいかない。ぶつかるわ踏まれるわで痛い稽古だった。

聴勁も捨て身技も、筋力でする投げや打撃よりもずっと私向けの技術だと思うので何とか身につけたい。

稽古後は、師のブログの気になっていた言葉「自分と世界は大きく見ると同じ」についてお話を伺う。言葉自体も謎だし、別の記事にはこうも書かれているのだ。

自分と相手の間には断絶があります。

それを無視し、「理解しようとして理解する」、というのは「自分はそれを理解できる」という前提になりたっています。そこから生まれるのは、誤解、もしくは理解したつもり、です。同様に、自分を理解してもらいたい、と力説することも不毛です。

理解しようとすれば、相手の中から自分に分かる部分だけを拾い、自分の中にない概念はノイズとして処理してしまいます。しかし、その分からずに捨ててしまう部分が大事なのです。だからまずは取捨選択せずに丸ごと受け入れる必要がある。ただ、否定も肯定もせず、そのままの形で見る。

そして、そのあと見るべきは相手ではなく、自分と相手の間の断絶です。その幅や深さ、原因などを見る。相手と自分の間にある場、そして自分と相手ひっくるめての対立している構造全体を見る。そうすることで、ようやく理解の糸口がつかめます。これは実際の戦闘においても、組手などにおいても非常に大事なことです。

同じだけど断絶してるってどういう事や、とねちっこく質問する。すると師は次のような文言をもって鮮やかに返答された。出典は禅の公案だと思われる。

犬には仏性がある。しかし犬は仏性を認識できない。ゆえに犬は仏であるが仏と断絶している。

自分が世界と同じであると認識しない私は、認識しないことで世界と断絶している。つまり断絶には実体がない。断絶しているとは、自分が世界(や他者や目の前の相手)と同じだとわからないこと、同じであることを受容していないことの言い換えにすぎない。わからない自分がする同時通訳をミュートにすること。

対話を終えた私の脳裏には、♪私もサザエさん、あなたもサザエさん・・というフレーズが去来していた。