弟子のSです

武術の稽古日誌

草書な日々

師がツイッターで最近どんどん稽古が抽象化してきていると書いておられたが、教わる側の感じでは「最近」どころでなく、そうなってもう大分たつ気がする。ずっと師についていると違和感がないけど、OBが久しぶりに教室に出たりすると「変わった」という印象を強く受けるようだ。 以前、武術家の技術の変遷を書の「楷書・行書・草書」になぞらえた話を伺って記事にしたことがあるが、その中の 草書は流れを自分で作っているのか、自分が流れに運ばれているのかもわからない状態です。可能な限り自発的な動きを削るので、外形的にはほとんど動いていないように見える場合もあります。 などという記述を読むと、今の稽古はすでに限りなく草書なのではないかと思える。すでに、というのは草書の段階が武術家個人のライフイベントとしては「隠居・余生」と重なる50歳頃ということになっていて、図のライフイベントが平成の時代のそれではないことを考慮に入れたとしても、わが師はそれにしちゃ実年齢が若いと思うからです。図とちがう・・。 師の武術は今後より抽象的な、統合された、汎用性の高いものになっていくだろうと思う。それがどんなもので、どんな影響を学ぶ私に及ぼすのかは想像もつかないが。