弟子のSです

武術の稽古日誌

ベースボールは終わらない

小さい頃、年上の女の子が住んでいた隣家に入り浸っては帰らないと泣く毎日を繰り返していた私は、長じた今でも、一人でいるのが嫌いなわけじゃないのに、じゃあまたねと人と離れるその瞬間が苦手だ。

師弟の間で行われることは「法」の授受である。法とは河を渡る「いかだ」に例えられもする、一連の技術を貫く設計思想のこと。その受け継ぎがすんだら弟子は師のもとを離れ、師の存在は弟子の中で徐々に薄まり(というかその段階で弟子は師と同一化している)、やがて実在としての師は忘れる、というのが完成形らしい。そういう意味で師の愛は子の自立を促す親の愛に似るという。

とは言っても実の親子ではないので、そういう話を聞くと冒頭の性向が頭をもたげ、いつか別れ、忘れる日に向かって進むなんて、どうしてそんなさびしいことを、ドライにもほどがある、と言いたくなる。しかし武術が自由や自立のための方便であることを考えれば、教わり手が独り立ちに向かって進まないのは、師にしてみればご自身の存在理由を踏みにじられるに等しいことだろう。

公園で杖と双推手。受容ができるようになりつつあると認められた。していることは、床にごろにゃんと倒れる受身とか、不意に人に打たれてもわたわたしない要領と多分同じだ・・・

表題はフジファブリック