弟子のSです

武術の稽古日誌

辰巳芳子×川瀬敏郎

昨晩、花道家の川瀬敏郎さんがEテレの「達人達」という番組で料理家の辰巳芳子さんと対談をしていました。こういう人だったのかあ・・。心に残ったところを書き起こしてみます。 川瀬:(枯れたヤブミョウガを生けながら)日本の花というのは心にまで昇華した花を見よう、心の花を愛でようとしてきた文化なので、普通だったら捨ててしまうようなものの命の姿を眺めている。こういうものを汚いと思う人もいると同時に、壮絶な、終わろうとする姿の美しさだとご覧になる人もいらっしゃいます。
 辰巳:ヤブミョウガの葉っぱってね、元気な時は一種の邪魔者みたいだけどね・・・
 川瀬:不思議なことに、平凡だと思う花は案外すがれた(衰えた、枯れ始めた)時にその本性をあらわす。私もヤブミョウガはそんなに生けたい花じゃないですけど、この時期になると独特の魅力があるんですね。一見みすぼらしく見えるようなものを生けることによって美しいものになる。それが心の花の文化なんだと思います。 川瀬:切るということ自体、調理もそうでしょうが、ある種の罪を含んでいるわけです。切っていく者は見事に殺しきらない限り(生けるという)真実に至らない。パラドックスですよ。それが中途半端にほどほどであったらかえって生きない。抽出できないというか。そのことに人間が賭けていないと。覚悟をつけて。それが向こうからのものを唯一引きずり出す方法かなと思っています。 
辰巳:たくあん一つでも、切り方で生かしたり殺したりしてしまうからね。
 川瀬:花もそれは同じですね。「いける」という言い方をしてまで、花を捉えた民族はそういるわけではない。
 辰巳:「いける」って「活ける」という字を書きますか?
 川瀬:一般的に私はひらがなで書きます。「活」も含め「生」もありとあらゆるものを包括して「いける」っていうふうに。
 辰巳:不思議なんですね。いのちっていうのは漢字で「生命」と書きますとね、生物学的な命なんですね。でもひらがなで「いのち」と書くと実存としての「いのち」になる。たましい。 
川瀬:「こころ」も同じで、漢字で「心」と書いてしまうと観念的なものに思ってしまってスッと入ってこない。仏教で「草木国土悉皆成仏(草木国土にも仏性があり成仏する)」という言葉がありますけれども、日本では初めてこころの部分を花に見出してきたから、自然と言ってもこころの自然なんです。(仏教の)本場のインドでは、花にはこころがないっていうか、そういうものとして草木とかは入ってないんですね。われわれが「いける」のはこころの肖像、魂の肖像を一本の花から見出して生かしていくということだと思います。 川瀬:辰巳先生(90歳)は私に「80歳になったら考えが変わりますよ」といつか仰ってくださいましたけど、白洲(正子)先生も「あんたの、年とってからの花が私は本当は見たいんだ」と仰っていました。要するに人間が思考をなくして、何か、体だけが動いた中から取り出していくものを望まれたことなんだろうなと。 辰巳:その人の望みを果たしてくれるのが体だけれど、体が思うように動かなくなると必要なものだけで体を使っていこうとするんですよ。年とって、いいかなと思うことはそういうことでしょうか。あまり年のことは考えないで今まで来てしまいましたけど、体の力や何かが抜けてきた時に、抜けた状態で表現できること。自然にそういうことになるからね。結局「力」というものにはどうしても「我」がある。力が抜けてくると自然に我も抜けてくる。必要最小限、必要なことはただ一つということはあるでしょう。それでやっていくよりほか仕方ない。
 川瀬:力が抜けるからこそ自由になれるんですね。 川瀬:先生は世阿弥の「稽古は強かれ」「物数を尽くす」ということをに大切にされていると聞きますけど、やはり花でも物数を尽くさないと。
 辰巳:練習を「物数を尽くす」という表現で言ってくださった先祖がいたのはすごいですね。 
川瀬:先生は、最も大事になさっていることはどんなことですか? 
辰巳:そうねえ・・。ものに従っていく。「(ものが)こうしてほしい」ということに従っていくということ以外にございませんね。 
川瀬:そうするためには下地も大事ですね。
 辰巳:ある種の経験が必要で。ものの扱いを教わりますから。皮一つ剥くにもテクニックが備わっていないと向こうの注文に応えられませんものね。 
川瀬:人間はばかですから、何度も何度もやらない限りこころの胸に落とすことはできないんです。ありとあらゆるものに向き合わなければならない。好きなことだけやってたら同好会みたいになってしまう。「最も嫌い」を好きになってこそ、初めて本当の「好き」という心かもしれない。最も厭なこと苦手なことを我がものにして、初めて本当の「好き」になるんだと思います。花を生けるというのは、最終的には、本当に自由に生きたいために行っているわけです。自由というのは「無」という言葉であっても構わないし、最後の、本当の、真言真実にあたっていくこと。 辰巳:本当の自分になるためですね。 川瀬:そうです。本当の自分になっていく道というのは自由な道なんですね。