弟子のSです

武術の稽古日誌

愛をください、的な

人の弟子として武術を学ぶ私は、公私二種類の立場で武術に関わっている。

師の武術の理論や思想を受け継ぐという、公人としての関わり方。もう一つは武術によって個人的な問題に指針を得たい、大げさにいうと心の救済を得たいという、私人としての関わり方。

公的な部分、「法」を受け継ぐ、という言い方をするけれども、そのための努力を通じて私的な部分も救われていくというのが、本来の修行の姿。あくまでもファースト・プライオリティは「公」にある。なぜならば、師のブログにもあるように武術の理は普遍的なので、それを得れば個別の「私」の問題にいくらでも応用していけるからだ。

しかるに自分という人間の行動原理は、まず今ここに在る「私」を守ろう、楽にしようとする。そのことは先日の双推手の動画撮影を拒んだことではっきりした。師の「姿を晒すのが嫌だったら、どうやってこれから人前に立って私の武術を伝えられるのか?」という至極もっともなご意見を拝聴しつつも、自己愛というか歪んだナルシシズムというか、そういうものが、弟子という公的な立場をやすやすと凌駕する。そうなったら最後、弟子として師にやさしくされないことに普段は誇りを持っているのに、相反する激情が総身を支配するのだ。やさしくしてほしい(しかも私のリクエストによってでなく、自発的に)。それは深く師を傷つける。我々にとっては武術が至上の価値ではないのか。バカなのか。なぜわからないのか。弟子を持ってよかったと少しは思わせてください。・・・

私「私は武術に向いてない」

師「誰よりも向いてないから、誰よりも必要なんでしょう」

師「500万の損失を与えても会社はその人を雇い続ける。1000万の損失を与えても雇い続ける。その人が真摯に反省していれば1500万の損失を回収して、いつかそれ以上の利益を会社にもたらすと考えるからだ」

私「500万の損失を与えた後でさらに1000万の損失を与えたら、次は3000万の損失をもたらすだろう、その前に手を打とうと考えるのがふつうじゃないでしょうか、当人も会社も」

こんなことを言うから「反省する気あんのか」ということになる。文字に起こしてみると私は本当に甘えてるな。だから苦しいんだ。私たち師弟は師でもっている。でも、師はもうくたくただ。

あなたが求める「自分を満足させてくれる愛」は自己満足的、自己完結的な愛で、どこにもありません。