弟子のSです

武術の稽古日誌

師は絶対、かつ我以外皆師

先日師に、白桃会の武術の本質はなにかと訊かれたが答えられなかった。修証一等ですと言われた後でもまだピンと来ないが、考えるうち、私が弟子をやっているということ自体が一つの答えを暗示しているように思えてきた。一般的な常識や価値観をもって私という人間を見たとき、人は「なんでこの人が武術?全然それっぽく見えないんですけど」と必ずや思うであろう(何度もそうしたコメントに接してきた)。しかるに師は、最も武術に遠い人間こそ、最も武術が必要な人間だと考える。武術に遠いあなただからこそ、意志でもってそれらに仕えよという。目のつけどころが人と全く違う。新規である。それだけに教える方も教わる方も大変だけれど。

師は「師父」と言うくらいで、弟子にとっては父親である。それも「天のお父さま」という意味での父親と同義だ。父親は武術の窓口。なので子は親の命じることに「わかりました」「やります」と答える以外の選択肢を持たない。親を介して武術とつながることを、子が望んだからである。

弟子になったばかりの頃、『虹の階梯』という本の「(師に)自分のすべてを投げだす」という一節にうっとりしたものだが、絶対服従とは言うほど簡単なものではない。なにしろ師が黒と言えば、白いものも黒なのである。半世紀かけて培った常識や既成の価値観がゆるぎなく白と判定するものを、黒とする。それははっきり言って内面の激しい葛藤を伴うが、子である以上は従うしかない。なぜならば、

自分の上位の知覚領域で判断される判断の正誤を、下位の人間は判定できない

からだ。武術の名において未知の領域を啓示する存在、それが師なのである。

また「我以外皆師」という言葉があるそうだが、それは未知の領域を啓示する、すなわち、目には「わからないもの」として映る全ての存在が師である、の意。ニュートンがリンゴから学んだように。つまり師は、父は、従うべき唯一の存在でありながら遍在している。言い換えるならば、唯々諾々と従うべきでないのは既知のもの。常識や、固定された価値観(師はもっと激しくて「憎め」「踏みつけて粉々にしろ」と仰る)。わかるものには価値がないということ。

わからないものに価値がある。取り組めと命じられるものは常に理解を超えたものだ。お父さんは、わからないということをもってお父さんなのだ。新規の概念を授受するのは冒頭に述べたように双方にとって難儀なことだが、子としては「直(ちょく)」であろうとする姿勢が大事なのだという。お父さんを判定しない。こちらから掴もうとする。お父さんがこっちだと手招きするので、ない梯子を、自由と可能性という名の見えない虹に向かって架けるように。