弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

武術90分、スポセン。腕振りから。腕振りは、両手両足を広げた姿勢の左右を入れ替えるという白桃会の基本功。拳を落とす勢いで足を入れ替える。

habataki.jpg前後を示す便宜上ハダカにしています

ピョンピョン弾んで頭が上下動してはならない。拳はただ落とすだけ。勢いをつけるために力んだらNG。足は滑るように前後に移動する。飛び跳ねたら失敗。

力まない。力を出さない。力を「出す」ことと力を「使う」ことは別。力を使うこと。これを身につけるためにあとの時間の大半を費やした。

対向して差し出された拳を下に落とす。ひじに手刀を当てて落とす。単鞭。交差術で、相手の腕に腕をかけて落とす。慣れたら手だけを取って落とす。タックルに対し「人」の字のように相手にかぶさって崩す、さば折りもどき。塔手から目にプレッシャーを与えて崩す←直線状でなく弧を描くように侵入する。

それから合気上げ三種。三種というのは先日教わったものごとの態様のこと(解説はこちら)。1「単体」。2「その単体と相対的に存在するもの」。3「両者の間に生まれるもの」。

1を合気上げに適用する。相手には均等に押さえてもらい、自分の姿勢を工夫することで上げる。

2では不均等な押さえ方をしてもらい、相手の力加減を読んでそれに対応して上げる。

そして難攻不落の3。「押さえこむ相手とそれに反発して上げる自分」という構造そのものをなくす。これが「力を出さない、力でやらない」だ。相手と同調する感覚を得たところで上げる。上げるというよりは一緒に動く感じ。相手は自分の一部だからだ。

3の感覚の養成ではこういうのもやりました。

push.jpg

拳を両手で押さえてもらい、相手を後ろに倒す。「押さえこむ相手とそれに反発して押し返す自分」ではない。これは「二人合わせてこういう形をしたもの」。そうした際の相手を、他の門人さんが以前「お箸」に喩えていたが、自分と対象とが衝突関係にない。フィットして一つながりである。

やってやるぞ!というのが、力を出す感じ。これだと相手に気取られて反発を招き、絶対うまくいかない。師の言葉を借りれば、たとえば相手の手を取ったら「そのまま後ろに置きにいく」「そのまま足のかゆいところを掻きにいく」感じ。勢いで、力でやらないとはそういうこと。

「まだ力でやってる」「まだ力でやってる」「まだ力でやってる」できない、わからない!

力でやるのでなければ、この「お箸をそっち方向に運ぼう」という私の意志はどうやって実現するんだろう。どうすれば相手は「そっち方向には運ばれないぞ」という意志を持たない、ただの「お箸」になってくれるんだろう。

わからないが、ごくまれにうまくいく。すると師が「できたじゃない。力でなくてもできるでしょう」と仰る。でも、何でうまくいったのかわからない。わからなくちゃ、できたとしてもまぐれだ。わからなくちゃ再現ができない。再現できなきゃ使えない。そんなの「できる」に入らない。「私にもできることがわかった」にすぎない。

三態様の2と3とでは組手のやり方も違ってくる。

2では相手の力に力で対する。ぶつかり合って打ったり打たれたり賑やか。3は感覚的というか、どこか俯瞰するように相手の意識に対して反応する組手。あまりコンタクトしない。

医者が中高年にコンタクトスポーツを勧めないのは、骨量がないために骨折しやすいせいだ。特に女は閉経というイベントを境に骨量が激減するという。更年期どまんなかの私には、だから時間がない。打たれ強さが問われるような2番めの段階を早く通過しないと。それでなくても痩せ型でぶつかり合いには向いていないのだ。骨が丈夫なうちに早く3番めのができるようにならないと。早く。早く。

しかし思いとは裏腹にうまくいかないのだった。「Sさんは愛がないから」「直じゃないから」。う〜んう〜んと首を捻っている間に稽古は終わった。稽古後は直帰した。よくなったと思っても、またすぐ悪くなってしまう。虚しくて本も読む気にならない。悲しい気持ちを分析すると(これがものにならなかったらどうしよう・・)。戒められる達成型思考。

ついでに発熱した。よく考えたらおなかを壊していて体調も悪かった。寝込む。