弟子のSです

武術の稽古日誌

身体からまっしぐら

When I do good, I feel good. When I do bad, I feel bad. That's my religion. 良い行いをすると気分が良い。悪い行いをすると気分が悪い。これが私の宗教である。 リンカーンのこの言葉が長い年月にわたり私の実感であった。武術を始めるまでは。武術はそれまでの自分の常識や価値観を片端から壊しにくるが、「I」の気分の良し悪しなどどうでもいい、意味も価値もないと繰り返し説かれることは、(そのことに感情的な抵抗が今もないわけではないが)自意識にとらわれ独善に走りがちな私という人間を少し複眼的にしてくれたと思う。 そもそも「善悪」というのは、何をもって罪とするかの認識を同じくするという前提なしには成り立たない指標である。逆に言うと、その指標は同じ認識を共有する集団内にしか通じない。それは信念というふわふわしたものに過ぎない。武術が指標とするのはそうした前提条件抜きの、数限りない状況・対人場面の中の各瞬間における「正誤」だけ。 でもって、その正誤を判断するのに「I」に拠るのは適切ではないというわけだ。よく使われる例えだが、熱いやかんに手を触れると「I」が「熱い、手を離そう」と思う前に人は手を離すであろう。無意識は「I」よりもずっと賢い。賢くて速い。小平に「畑からまっしぐらちゃん」という産直野菜のキャラクターがいるが、無意識はいわば「身体からまっしぐらちゃん」だからである。 自分の身体を、筆や剣のような道具やシステムとして捉え、それが最高のパフォーマンスを発揮するための裏方、黒子に徹する。 武術では、意識の主体としての「I」の立ち位置は「黒子」だ。黒子は、無意識の主体としての身体(おそらくこちらが真の「I」なのであるが)の振舞いを妨げないようにする。すなわち、したいことでなく必要なことをする。できることでなく正しいことをする。 しかし、これはとっても難しいことなのである。なにしろ私はまだ、「I」が実はアテにならないものだった、ということをやっとこ悟ったばかりだ。私が師のナビゲートに従順であろうとするのはそうした理由による。 よろしければこちらの用語解説も併せてお読みください