弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

稽古を一週間休んだことに自分で衝撃を受けていたが「何年もやってうまくならないんだから、いま数回休んだところで特に影響ないでしょう」と師に言われ、そんなものかと思う。

池袋にて座学と実技。

「自分の武術を組み立てる方法」ということで教わった。師の新しい記事にある、尖った方向に進むという稽古。尖ったものにはそれを先端にして推進する性質があること。肩を先端にして、ひじを先端にして、指先・剣先を先端にして・・・動きの違いが、それぞれ日本や中国の剣術、八卦掌、能などの動きに重なって見えてくる。

力は差し出した手の先端に向かって流れていく。その流れに沿って動き続ければ流線的な八卦掌となり、流れを途中で意図的に逆流させればそれによって爆発的な力を生む八極拳となり、正流と逆流を細かく繰り返すと酔拳になる、といった具合。おもしろい・・・。

八卦掌は滑らかでエレガントでそれでいて力が出せて女性向けという感じ。興味をそそられる。しかし今日の趣旨は個別の武術を知ることでなく、武術家が武術を見出すプロセスを知ることだ。動きながら自分を内観し、術理に自ら気づくこと。自分の体を掘り下げて遊ぶ、遊んで発見創造する。武術家はクリエイターであるべきというかクリエイターでしかありえない。人は一人一人違うからだ。

一通り教わったあと、では一人で内観しながら動いてみなさいと言われてやってみたが、何にも見えて来ず、10分もせずにただ漫然と動くだけになった。すぐに師に見抜かれ、それでは苦行になっていると指摘される。じっと黙って見ておられる師に、いつまで続けたらいいのかなと思い「まだですか?」と尋ねたことで、私が稽古を遊行としていないことが決定的に明らかになった。

師は武術のパーツショップの店長。数日前のツイッターにこうある。

店長としては、この間のパーツでこんなもの作ってみたんだけどどう? というような会話が出来る客を待ち望んでいる。黙々とパーツだけ買っていって何も作ってないのにまた来る客には恐怖を感じる。

私は師の武術の術理とその哲学的な側面が掛け値なしに大好きだけれど、店長と楽しい会話ができるような客ではない。恐怖を与える客だ。その自覚が金曜稽古を休んだ理由である。それは今日いよいよはっきりした。私の「好き」は武術家の「好き」ではない。私は武術家ではない。師にしてみれば「馬を水場まで連れてくることはできても、水を飲ませることはできない」みたいな感じでずっと苛立ってこられたことと思う。

・・「のりちゃんは物知りね、なんでそんなこと知ってるの」と訊かれると「本に書いてあったの!」とニコニコ答えるような子供だった。量は読まないけど一冊の本をみっちり読み込むタイプで、気に入った数冊を飽かず何度も読み返し、書き込み、角っこを折り、何ごとかインスパイアされてはコリコリ自分でも絵とか文とか書いて、大人しく一人でいつまでも遊んで手間もお金もかからない、そんな子供。

武術家失格でも、私は生まれつきの性向を持った私を死ぬまで死なずに生きねばならない。これは弟子かどうかに関わらず、全ての人に通じる課題だろう。

自分の性向、趣味、関心事などを話したところ、師は私に合った学び方を提案してくださった。私の持つものを生かせるようにいくつかのことが変更になった。「私を生かす方向に」ということはつまり「私の武術として正しい方向に」舵が切れたことだと思う。私は本来人に暑苦しがられるほどやる気に溢れた人間だ。今それが滞っているのは何かが修整を待っているのだ。師弟関係の解消という形でなしにそれを許してくださった師に感謝する。

師弟って本当に親子みたいだ。譲歩からか諦めからかわからないけれども、言うことを聞かない自分を許されるって、やるせない。師父、がんばります。がんばるかどうかなど意味がないと言われるのを承知で、私はそう言うしかない。武術家でなくとも、武術家という生き方を知る人間として進んでいきたい。遊行、という生き方。