ならぬ理解、するが理解
師から言われたこと
「受け取った技術や思想を身につける努力をしてないのに稽古をしたがる。
人の話を聞いてないのに質問する。
相手を理解してないのに自分を理解されたがる。
愛してないのに愛されたがる。
相手の思考の道筋を辿るのが理解であり愛なのに、自分の価値観、文脈でわかろうとする。
私は壁に話しているようです。
いくら説明しても、わからない、どうやってやるのを繰り返す幼児を見るようです」。
幼児は成長という魔法が彼らを助けてくれるけど、歳とると良く変わるには自助努力するしかない。
相手の言葉をよく聞いて、思考の道筋をたどる。対象を理解するとは解釈することではない。解釈は自分が主体でするけど、理解は対象を主体にするから得られるもの。したがって自助努力の「努力」の本体とは、解釈しようとするちっこい自分を捨てにいくことにほかならない。
人の弟子として数年過ごした実感から言うのだが、これは、私のような我の強い人間にはものすごく大変なことです。それでもわかりたい、ちっこくない方の自分のために。
思考の全過程を否定することから行為の美が広がり、それがすなわち愛なのである。それがなければ真理の祝福はない。(クリシュナムルティ)