弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

池袋にて座学と実技。

前回、前々回と記事に「背負い投げの稽古をした」と書いたが、師に「あれは腰投げです」と訂正された。が〜ん! コメントまで頂戴したのに・・・すみません・・・。

師「背負い投げは手技、腰投げは腰技。相手を腰にやじろべえのように載せます」

私「(確認)載せるんですか」

師「載せます」

私「重い相手だと潰されますよね」

師「潰れません。Sさんの思っている「載せる」とはたぶん違う」

師が仰るには、実技の説明ではたとえば「背負う」の捉え方によって「背負い投げは背負わない」と「背負い投げは背負って投げる」が同じことを指す場合がある。「だから言葉でなくて身体感覚で覚えろと言っている」。

質問を周到に準備して行ったが、自分の抱える問題について対策を考えた上での質問ではないと一蹴される。「あなたは自分の知識欲を満たしたいだけだ」。

問題に取り組むステップ: 1)自分の悪癖を認知する 2)それについて対策を考え、一人で稽古する 3)対人稽古で発表する 4)チェック体制を敷く(うまくいったか? いかなかったか? それはなぜか?)。

正しく立てられた問いは既に答えであるということからも、悪癖を認知するという最初のステップは最重要かと思うが、同時に最も難しいところでもある。情は常に保身に走ろうとするからだ。「あなたは自分の知識欲を満たしたいだけ」・・それじゃいけないの?

帰宅後、NHKクローズアップ現代で「“元少年A” 手記出版の波紋」と題し、かの本の内容と執筆の経緯とが紹介されていた。

そこには遺族感情のために書くべきでないこと、贖罪意識があったらこうは書かないだろう、というようなことが書かれているのだそうだ。

それは彼が「まず自分」の人だということである。一生懸命書いた。書くことが好きだから書いた。それはやり方として大間違いだった。遺族にとっては元少年の内面の葛藤などどうでもいいのだ。罪を悔いて欲しい、そうすれば許せるかもしれない、私たちを楽にしてほしい。それなのに、なぜ自分を楽にするのが先なのか・・・。

元少年の行動原理から、私は、酒鬼薔薇は自分の中にもいるとはっきり思った。

好きなことだけやってたらダメだ。必要なことをするのでなければ意味がない。いくら熱心でも。

番組ではコメンテーターが、出版に社会的意義があると本当に考えたのなら、これは執筆の段階で編集者が被害者側に十分に配慮して擦り合わせをすべきだったと、舵取りとしての編集業務の重要性を言っていた。

イフばかりになってしまうが、もし元少年が目の確かな舵取りに恵まれ、もし彼の魂が本当は善きものであるならば、彼がすべきはやはり「悪癖を認知し、認識外のものを認識する」努力であろうと思う。