弟子のSです

武術の稽古日誌

昨日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

護身術では、対向した相手と接触する、その接触点で「なじみをつくる」という稽古をした。座位で取った手を押して倒したり、マウントをとられたのを返したり、立位で肩口とひじ下に手を当てて押し合ったり・・。

どの場合も、先日子供空手のMくんが「コーヒー牛乳」と表現したように、コーヒーのあなたと牛乳の私の「彼我の境界を濁らせる」ということをする。掴みもしないし、離れてもいない(お寿司のシャリとネタのように)。相手よりぎゅうぎゅうに力んでもいないし、弛んでもいない(ほどよく結ばれたおにぎりのように)。

そうして相手と自分の波長がぴったり合ったとき、自分のひざのように相手のひざが浮いて倒せるし、自分が寝返りを打つように相手を返すことができる。倒される方は力でやられた感じが全くしない。相手にねじ伏せられたといった負の印象がない。力比べというプロセスがないからである。

師と瀬尾さんが立位で対峙し、しばらく膠着したあと瀬尾さんが(見た目上)押しきられて決着したが、これは瀬尾さんが「力を使った」ためにそうなったという。勝つってどういう現象なんだろう・・。

正面から押しにくる相手をはね返す(見た目上)というのも稽古したが、これも接触点での衝突を曖昧にして返す。

表面上でぶつからず深いところを捉える・・浸透勁などにも通じることのようだ。たぶん私達のやっている武術というのは、何か一つの(一つでなくともごく少数の)「理」が生活動作を含む全ての挙動を統括しているのだ。抽象的なものを学んでいる、と師が仰るのはそういう意味においてだと思う。抽象的でありながら、武術は「あらわれ」としては徹頭徹尾実務である、というところが難しいところなのだが・・(抽象的な部分だけわかって実務が弱い、はあり得ないということ)。

抽象的な部分、言葉で表せないこと、考え方、着想、方法論。わからない。ただ、Mくんの「コーヒー牛乳」といった理解の仕方が正しい、というのはわかる。正しさの方向性が間違っていないことが今の私には大事だ。

相手を、どれだけ「異物」にしないかということ。自分を、どれだけ相手にとって「異物」にしないかということ。

私は骨張っていて、今日もSTさんにタックルしたところ「肩が刺さった・・」とSTさんがしばらく痛みに耐えていたので、ただでも相手に異物感を与えがちなことをよくよく自覚して生きていこうと思う。

太極拳でも関連した稽古をする。太極拳ではよく、相手と接している自分のパーツを完全に緩衝材とし(モノとみなし)、その緩衝材越しに陽の力を加えるということをする。攬雀尾のジー、靠、進歩搬欄捶などなど。接触点に力みがあると相手も抵抗するから、ワンクッション置いて抵抗させないのである。これも「彼我の境界を濁らせる」「異物でなくする」に通じることだろう。

つづく空手教室。子供たちの様子を観察してあれこれ思うところ多し。何を見ても武術(という言い方で表されるグランドデザイン的な何か)のヒントに思えるが、そこから理を抽出して実技に適用するのが私の課題。情報を受けとる力をつけること。人が成熟する(そして老いない)ということは、情報の受信器官が充分機能している、ということではないだろうか。

実技では、足技を稽古していて、かねてからの悲願である「蹴り封じ」に新たな希望を見出す。足を見ず相手全体を半眼で眺め、蹴りでなく蹴りの起こりを止めること! 私は手足が大きいから、それはアドバンテージだ。

子供たちを見ていると、武術的なことをわかりかけている子が、わからない子の「我」に圧倒されてしまう、というケースが多いように感じる。師も指摘されたように子供どうしは我の張り合いになりがちなのだが、わかっている子ほど我を張らないからである。否、我を張らないということが即ち「武術的なこと」だからだ。なので、いいな、この子強いな、という子が組手で勝てないということがわりとよく起こる。なにしろ稽古では勝敗に恬淡としている方が後がいい。では闘志とは何なんだ、という話になるけど。

稽古中は全く疲れを感じないのだが、幼児空手では気力を、子供空手では体力をそれぞれ使っていて、帰宅してすぐには家事に取りかかれないほどである。痛む身体中にバンテリンを塗りたくって就寝しかけると、師の稽古日誌が既に更新されている。書くの、速! 稽古の後、瀬尾さんといつものように鳥ふじで何時間も呑んでいたはずなのに・・。ちなみに私はこの記事を書くのに半日以上かかっている。死に至る遅筆である。