弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

あなたは自分の知識欲を満たしたいだけだ。

何がしかの技がかかった時にありがちな会話:

誰か「Sさんできたじゃない」

私 「できてない、何でできたのかわからないもん。わからないと再現できないもん」

誰か「できたってことはできてるんだよ」

できた理由をわかりたいのは私の頭。しかし「何だかわからないけどできた」という時、それは、頭はどうあれ身体ではわかったということ。定着・再現させるとは、できる理由を頭でわかることでなく、稽古で成功体験を積み重ねて身体にもっとわからせることなのかもしれないな。

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子供空手、与野にて。よい組手をする女の子がいると師に伺い、参考にするべく電車を乗り継いで出かけた。

詳細はこちら。師が最近よくされる、縦の糸がどうの、横の糸がどうのというお話が今ひとつわからなかったけど、こういうことだったのか。

相手の構えを崩すのを「開門」という。子供たちの前で師に訊かれたが言葉がとっさに出て来ず、しっかり覚えとけばよかったとほぞを噛む思いをしたが、それはまあデキる人と印象づけたいという見栄なのでいいとして、私はもっぱら、クリクリとした瞳の少年(小3)とペアを組んで稽古を進めていった。まだ体が小さいのに腰がしっかりして蹴りが強く、それは彼によればスイミングで鍛えているからなのである。なるほど鍛えていない私が蹴りがふにゃふにゃなのも合点がいく。

太極拳をしていると、どうも「発勁の工夫」「感触」みたいなのに目がいきがちで、フィジカルを鍛えるという意識が薄めになる。空手では自分がそこを意識するからか、太極拳の稽古よりも疲れるようだ。どちらも師が教えるのだから同じはずなのだが、何となく(空手→打撃と受け→剛→痛→アザ→あと何年やれるか・・)みたいな消極的な方向に連想が進む。

どの子も何年も稽古を続けているらしく、型をよく覚えている。私は投げの型の一段をほぼ覚え、これがとても便利そうなので嬉しい。寝技の型も始めの方をやったが、オモプラッタがまだできない。オモプラッタがぜひできるようになりたい。あの「あら不思議」感。もっとも、これは知識欲を満たしたいから、単純に覚えるのが面白いからだという自覚がある。実戦でかける機会があったとしてもせいぜい相手は夫くらいだろう。

女の子は小6、華奢だがきびきびとした動きが気持ちいい。今日はお休みだったが、いつもは「あばれはっちゃく」のような男子生徒がいるといい、その彼との組手が見たかったが残念だった。でも彼女の様子を見て、どんな組手なのか大体想像がつく気がした。(なんと、時間終わりに私は全ての子と連続で組手したのだ。)どの子のも我を張らない、相手に嫌がられない、品のいい組手であった。自分の組手が「ケダモノ」「興奮したチンパンジー」と長く評されていたことを思う。

午後は座学、遊行。専業武術家の「業」とは必然的に教職(指導者としてお金を得る)になっていく、というお話など伺う。私の疑問は、武術が芸術だとしたら、たとえば専業芸術家たるピカソの業は、人に教えるよりも、画家としての彼自身を全うすることにしかなかったはずで、武術家もただその人が武術家として生を全うするだけではいけないのですか?というもの。それではいけない、自分がよくなるだけでは足りない、というのは、指導者の適性に欠ける私には耳の痛い話。

私情とは師弟間には存在しないはずのもので、私たちは武術的でないかどうかだけを指摘し指摘されるだけの間柄。でも師の境地に達していない、達する目処も立たない私は武術的であることの真の価値が未だ見えず、友好の情がなくて何の人間関係だろうという感情にしばしば翻弄される。今日も苦しくて最後に崩れた。

感情よりもはるか上位の概念。そのもののために感情を制御できること。というか、そのものの前では感情の問題など取るに足りないと思えること。そんな価値がこの世にあるという。