弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

スポセンにてマンツーマン。夏休み前の最後の稽古。

白桃会の武術は太極拳柔術を基にしているので、私は柔らかい動き・ぶつからない動きを身につけるのだ。

今日はまず太腿の外側を弛めるストレッチから。片足を伸ばし、もう片足を曲げて4の字を描くように伸ばした足に載せる。載った足の足首が太腿の外側に当たるようにセットして上下にゴロゴロ。洒落にならない痛さ。太腿の張りを取るのはひざにも良いとのことで、靭帯を切った時のリハビリでも指導されたことがある。これだけ痛いということは相当固まってるんだな。

次に肩や肩甲骨に癒着したお肉を引きはがすようにつまみ、牽引しながらゆっくり回して筋肉をほぐす。これは雲に乗る心地良さ。タイ式マッサージってこんなの?

ほぐす時には、ほぐそうとするポイント以外の部位が弛まないように固定するが、これが極め技に応用できる。たとえば肩甲骨の筋肉をほぐす時は腕が逃げないように背側で固めておく。オモプラッタである。

そんな感じでリラクゼーションから柔術の稽古に移行していったが、ぶつからないという基本は変わらない。襟首を掴まれて首を突かれそうになる→ぶつからずに横にかわす→ぶつからずに相手の両腕をクロスさせる→ぶつからずに四股立ちで立ち上がる→ぶつからずにクロスの間に腹を入れ→ぶつからずに腹を横回転→相手倒れる、と。

その後太極拳套路を見ていただく。斜単鞭から肘底看捶という、普段は目に止まりにくいところを直された。太極拳を始めたばかりの頃、クラスの人に「ちゃんとできるようになるには10年かかるんですって」と言われて驚いたものだが、5年目の今、それは至極もっともなことと思われる。やればやるほど課題ができる。

姿勢で頻繁に直されるのが「あごを引く」こと。私の姿勢はあごが出て背中が丸まって猿のようだという。噓だと思うならと単鞭下勢の写真を横アングルで撮って師のと比較してみたところ、確かに進化の過程を見るようだ・・。

太極拳の要諦の一つに「虚領頂勁(きょれいちょうけい)」という言葉があるが、これはあごを引いて頭頂部を天から吊られているように、というもの。私は肩と首のこりが酷く、腕がしびれたりまぶたや頬が痙攣したりするのだけれど、それは骨格が人間なのに姿勢が猿だからかもしれない。真剣に直そう。

あと、セルフチェック用にと套路の動画を師に撮っていただいたのだが、「第四段だけ」との指示にもかかわらず冒頭の「第一段から」「延々と」続けて師に止められ、話を聞いていないことが明らかになった。情報の受信ができなくなったら人間おしまいだ。本当に気をつけよう。

今日は気功もやった。双按で、力に頼らずに相手を動かす。一度だけ深い共鳴というか共振というか、そういう体験ができた。接触面の境界がにじんで相手に染みていくような、自分がなくなるような感じがした。集合を表すベン図っていうんですか? 円が二つ重なる、あの重なりの部分がどんどん大きく曖昧になり、ついには一つの円になったような。

稽古後、前回の記事で触れた師の「私とあなたは同じ」について質問する。考えたけど、やっぱり「私」と「私でない人」は違う。私でない、という意味において決定的に違う。違うのに、なぜ同じなんですか?

すると師は歩を止めて一本の街路樹の二葉を指し「この葉とこの葉は確かに違う。でも同じでしょう」。また群れる鳩を指し同様のことを仰った。そうか・・・・。

しかし、それならばそれで訊きたいことがある。お持ち帰りもできるおいしいピザ屋さん【A】のクアトロ・フォルマッジを頬張りつつさらに質問を重ねる。

人A、人B、人C・・・人ABCが皆同じなら、その中で好悪の区別ができたり、ある人が特別な存在になったり、突出して好きになって恋と呼ばれたりするのはどういうことですか?

師「うーん、それはよくわかっていないんだ。錯覚かもしれない」。そうか・・・・。そこは難しいとこなのか・・・・。

人がこうと思う世界は、たぶんに、その人の思い込みや錯覚で作られたものなのだ。だからと言ってどうすれば、とまたもや思うけれど、事実としてそれを自覚することが一つの成長だと思いたい。「〜に違いない」「間違いなく〜だ」というのを疑って、吟味していくこと。

師は夏休みはタイで過ごされるそうだ。例年出される夏休みの宿題が今年はないが、自分の宿題は自分でわかる。指摘されたところを直す(下線)。師よ、どうかご無事で。