弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

池袋西口公園にて太極拳。馬場のスポセンに行ったらば第四月曜で閉まってた。このパターン、何度繰り返せば学習するのだろう・・。

套路と単・双推手。姿勢をまだまだ直される。頭の位置が悪い。重心の虚実があいまい。「実」の方の鼠径部はしっかり曲げて重心が足に載るようにしてやること。

単推手も双推手も防戦一方になって形が崩れる。攻撃と防御を分けて考えない。双推手では片手で守りつつ片手では攻めていることが大事。こちらが攻めれば相手はそれを守らねばならないので、そのぶん受ける攻撃が減るからだ。

攻められるくらいならそもそも防戦一方になってないよと思うけど、その状況に陥っていること自体が誤りなので、脱するというより、そうならないようにしないといけない。考えずにやれと言われる。考えないということに対してSさんには恐れがある、無心では動けないと思い込んでいると言われた。無心と「頭まっしろ」の違いがわからない。考えなかったらきっと私はただ棒立ちになるだけだ。「それは稽古を重ねることでしかできるようにならないことです」。

それから・・・

かつて無理を通そうとして大きなケガをした。そこから学んで、非力な私は「勝つ」より「負けない」こと、形勢において「膠着状態」になることを目指してきた。しかし今日、膠着で落としどころを求めるのは武術の第一義ではないと師に諭された。武術は確かに弱者のためのものだが、弱者が「戦えば負ける」状態のままで相手と「勝負なし」の地平に持ち込めるはずだというのは拡大解釈にすぎると。

柔道する人がまず相手の袖口を狙っていくように、物事にはまずこれをしなきゃ始まらない、という行動がある。それがうまくいかなかった時に次善策、次々善策・・というように行動のフローチャートが展開する。上級者とは瞬時にそのチャートに沿って動ける人のことだが、武術においてまずこれを狙うという第一義の行動は敵との「膠着」ではない。やはり、非力だろうと何だろうと、何らかの方法によって敵を「殲滅」すること。殲滅できる術があって、はじめて相手と「勝負なし」の地平に持ち込む駆け引きができる。そして、この術ばかりは人に教わることはできない。自分で考えるしかない。

みたいなことを言われた。蚊がぶーんと刺して牛を倒す光景を思い浮かべながら聞いていた。

武術が考えることが、ひたすら「私とはか」だというのは、そういうことなんだ。

稽古前も終わってからも、今日の師は腎臓が痛いとピンポイント的なことを仰っては背中をさすっておられた。昨日は発熱をおして指導に行かれたそうだ。具合の悪い時に稽古を代行させられるくらい弟子が育っていればねぇ・・と仰る。どうしていいかわからない。私には威厳がないもの。イエスだって威厳があったからあんな貧相でも人が耳を傾けたんだもの。

おまけ・師がツイートされていた、警備員♀とのディスコミュニケーションの件。

その場に私は居合わせたのだが、師が話し終わらないうちに(あの・・お連れ様は何と?)的なとまどいの視線が警備員さんから私に向けられた。本館への連絡通路はどこですか、と言うと彼女の表情がパアッと得心の輝きに包まれた。親切に誘導してくれる彼女の後を私達は笑いを噛み殺しながらついて行った。