弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

エースをねらえ!』で岡ひろみが「コーチの思ったとおりの選手になりたい!」って練習に精出す場面があって、以前は「わかる、わかるぞひろみ」と読んでいたのだが、最近それを「ひろみそれでいいのか?」と感じるようになった。コーチの思い通りの選手になった、教え子を自分の思い通りの選手に育て上げた、・・・で?

狙い定めた通りのものになって、おもしろいのかな?

「思ったとおりの」じゃ足りない。私は師の「思った以上の」「思いもよらなかった」武術家になるんだ(大体師は何も「思って」おられないだろうしな・・)。「えっ、俺こんなの作っちゃったの!?」みたいな。私たちは創造をやっているんだもの。

何かと言うとぐらつくくせに平常心では結構イキのいいことを考えていて、昨夜師に言われた「口伝を聞き逃さないこと、見逃さないこと」という指示を胸に「オッケー!」とスポセンに向かう。

スポセン。しかし・・・・・・

する稽古、する稽古、どれもうまくできない。

双推手から相手の崩れを見つけて技をかける稽古は、崩れが見つからないし崩せない。崩れていてもすることが思いつかない。体が動かない。

がっぷり組んだ相手をつっかい棒を外すようにして投げる稽古は、がっぷり組んだ時点で余力を残していないため、そこから先に進めない。(捨身投げだけはうまくいった。)

金鶏独立・四股の応用で相手を沈める・持ち上げる・投げる稽古は、鼠径部の使い方とひざの開き方に問題があって本当にうまくいかず、マンツーマンでないのにずいぶん時間をとらせてしまった。ひざを曲げたままキープする苦しい体勢は「ひざは結果として曲がるだけ」と瀬尾さんが助け舟を出してくれるまでひざでやっていた。鼠径部でやるものだった。

鼠径部をしっかり折ること、つま先とひざ頭の方向を揃えることは何度も言われた基本だし、前十字靭帯損傷のリハビリでもひざを守るためにさんざん指導されたことだ。

ダメだ・・・あれもこれもそれも全部・・・悲しい・・・・・・・

終わってから師に「今日のあなたは認識外の領域を認識しようとしていましたか」「四股はいつまでにできるようにしてきますか」など訊かれる。思いが渦巻いて言葉にならない。あれこれと話題を振ってくれる師に話したいこともあったはずなのに、黙ってたら、拒絶とおんなじだ。

——さっきまでのやる気はどうしたの? 立派な武術家になるんじゃなかったの? 与えれば与えるほど豊かになるんじゃなかったの?

心の声に責められながらも、顔を上げて師を見ることができない。用事でとっとと帰ってしまった瀬尾さんが、ここにいればなあ。師は瀬尾さんといると楽しそうだもの。師「私があなた以外の人といるのが楽しいからといって、それがあなたが私に不快な態度をとる理由になるんですか?」。不快な態度をとりたくてとってるんじゃない。黙りたくて黙ってるんじゃない。本当に意志ではどうにもならないんだもの。緘黙症という言葉が脳裏をかすめる。逃げるようにお別れした。一人になってスマホを開くと、待っていたように次のツイートがあらわれた。

すごく単純な人生の結論なンだけど、「自分の感情に振り回されるのをやめる」のはとても大事なこと。楽しくないから笑えないのではなく、笑ってりゃ楽しくなる。やる気がないからやらないのではなく、やってりゃやる気が出る。人に嫌われるのが怖いから一人でいるじゃなく、人を愛していたら愛される。(小池一夫