弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

時間前に師のする套路のビデオ撮影。めずらしくご自分で立て続けにNGを出され、中断せずに撮ることができなかった。こんなこともあるんだと思った。どこがダメなのかわかりますかと尋ねられたがわからない。NG集を(消せと言われたけど)よく見てみよう。

課題だった金鶏独立を見ていただいた。ためになる動画を紹介していただいたりしたがまだ安定しない。バランス感覚が大事だというので、家ではストレッチポールの上に立ったりして、それはだいぶ得意になったけど・・。

馬歩の姿勢と四股はぜんぜんダメ。

護身術では「何かが『できない』とはどういうことか」というお話を伺った。

たとえばバケツは水を汲むものだが、棒で叩いて音を出したり、伏せて台にしたり、頭にかぶることもできる。もしバケツが口をきけて「自分は水を汲むものだから、音を出したりはできないよ」と言ったとしても、それは誤りである。バケツは水を汲む以外のいろいろのことができる。

同様に人が「自分は〜だ。自分は〜ができない」と感じたとしてもそれは誤りだ。人はある事象についてある感じ方をしたり可能性の予測を立てたりするが、たとえば芋虫がそうするだろうか。たとえば赤ん坊が可能性の予測を立てるだろうか。可能性を限定しない、その意味において、赤ん坊には「できないことはない」。

というようなお話。

実技は9月14日にスポセンで稽古した内容の続き。がっぷり組んだ状態で相手との接点はそのままに足を自由に動かす。パントマイムで壁を押さえつけたまま足だけ動かすようなしぐさ。そうして圧のかかった相手をつっかい棒を外すようにして投げる。 SKさん夫妻のご主人がお上手。もともと格闘技に興味のある方だからだろうか、知識に基づいた理解力とセンスがある。(私は人のことは言えないけれど)稽古を始めた頃の力でゴリ押ししてくる感じがなくなり、よい稽古が持てる。その変化も理解力とセンスの賜物だと思う。

幼児空手と子供空手のアシスト。と言っても、私が「アシスト」をしていると言えるのは、散らばりがちな幼児をわんわんわんと追ってまとめることくらい・・していることは基本的には「観察」である。指導の足を引っ張るまいと心がけている。

稽古中、私を相手に打撃の組手をするという時間が設けられたが、ふわふわした印象の子が意外な成長を見せていて面白かった。粘っこくてつかみどころのない、いかにも「師らしい」動きをする。勝負にわりと恬淡としていたり、ただ面白がっている子の方が伸びる印象があるな・・

子供空手では相手の裏に入り、ひざ裏からふくらはぎに足を落として崩すという稽古をした。これも課題の「金鶏独立・四股の足の用法」と関連するようだ。相手に近接する足でなく軸足(の、それも鼠径部)を駆動部にする、あれ。体幹の力を出すべくいかに合理的な姿勢を作るか・動くか。

空手の時間に参加して思うのは、私はつくづく関節技がきまらないということ。手順自体を間違えているとか精度が低いとか色々理由はあるけれど、とにかくできない。

師と私とは歴然すぎるスペックの差に加えて20年以上のキャリアの差がある。師はその上でさらに週に5日間、指導というかたちでみっちり対人稽古しておられる。そういう人間のパートナーになるのにどのくらいの稽古が要るか考えてみろと言われた。私は精一杯稽古に通って、やつれるほどの思いで毎日過ごしているけれど、それでも全然足りない。というか修行が「遊行(楽しみ)」でない時点で既に誤りなのだ。ここで頭をよぎるのは次なる思いである。

武術を通して自由になることなんて、私には無理なのではないか?

ああ、私は考えるバケツだ。「水を汲む以外のことは無理」。

「無理」についての考察、次回につづく。