「無理」について考える
前回の記事のつづき。
何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。(中島敦『悟浄出世』)
赤ん坊は可能性を限定しない。
人間である、という実際のありようは変わらないのに、大人は、私は、ある可能性について「無理」と感じる。確信的に感じる。なぜなのか。
「意識の毒汁」のせいだ。それが実相と感じ方を隔てる。可能性があるのに無理と感じる、愛されているのに孤独と感じる、手に入れているのに何もないと感じる・・・
バケツがどう思おうとも、バケツには水を汲む以外の用途が実際にあるのだから、バケツはバケツの思う以外のことができるんだ。何ができるのかわからないだけだ。わかるのは「(赤ん坊が何かをできうると同様に)何かができうる」ということだけだが、それさえも感情は認めたがらない。
意識の毒汁が「無理」と叫ぶたびに、そのからくりを思い出すしかないんじゃないか。少なくともそのからくりを知っている、それだけでなんぼか強みなはず。
そのうえで私がまず目指すのは、「感情を持つ」と「感情に囚われる」を分けられるようになること。禅宗の偉いお坊さんがいまわのきわに「死にとうない」と言うような、そんな自然そのものの境地になれたら・・。感情は感情として押し殺さず、それでいて、まあいいや、みたいな。
そういうのが今の私の考える最高の自由。でも本当はその先があるらしい。バケツは自分に何ができるか、自分が何になれるかわからない。
人が目指すべきはまだ誰も見ていないもの、だ。