弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

毎日せっせと卵を立ててはツイッターに投稿している。一コでも失敗して割るようなことがあればやめようと思っているのだが、これが割合にあっさり立つのだ。卵が立つ瞬間は、まるでそうなることが前から決まっていたような独特の予定調和感がある(それを師に熱く語ったところ「釈迦に説法」。技がかかる時の感じがそれだそうだ)。和解、というんですか。立つからその感じを得るのか、その感じを得るから立つのか、その辺の微妙さもまた味わい深く・・・

座学と実技。今日はスポセンに行く前に第四月曜日、閉館日だと気づいた。上出来だ。

座学は路線名のあいまいな地下鉄に乗り、漢字四文字だが清澄白河ではない駅で降り、グーグルマップで辿り着いたお店のフレンチキュイジーヌな感じのお洒落ランチをいただきつつ行われた。

パリの恋人たちのこじゃれた会話が似合いそうなお店だったけど、そこで交わされたのは修行にまつわるエトセトラ、綱渡りのような対話であった。うまく書ける自信がないが、記録。

・宇宙を支配する原理原則と自分を支配するそれは同じものである。全体を支配する原理原則と個を支配するそれは同じものである。これを東洋の言葉で「梵我一如」という。同一の原理原則のもとにあるという意味において、すべての存在はありよう(実相)として等しい。ただ存在する存在として、万物はあなたと同じもの。これは武術の大原則で、だから人に技がかかるのだし、万物に礼を払うのも、それだからこそ。

・卵が立つのを「和解」と感じる件について。卵は対立を乗り越えて立ったのではない、対立のないところに、立つはずのものが立っただけだ。A地点からB地点に行くのにもともと障壁はない。卵は本来立つ。人は本来自由で、自ずから悟っている(これを難しい言葉で「一切衆生悉有仏性」などという)。本来の姿を見えなくしているのは、我というレイヤーが障壁となっているから。

・「○○は××なんですか?」と問うYES-NO式の問いは全て問いの立て方がおかしく無意味であること。梵と我は一如であって相対関係にない。相対性を超克した視点に二者択一は存在しない。人であり仏である、まったく勝とうとしないことと一撃必殺が矛盾しない、そもそも矛盾自体が存在しない。それが本当にわかっていたらSさんの疑問や悩みと称するものはことごとく無意味なことがわかるはず。

そして、きわめつけだったのは

・我というレイヤーのない人、障壁のない人でありなさい。修行者ならそれがしかるべき態度・前提というもので、そこに「でも・だって」の入る余地はない。問題を解くのに前提である問題文を疑ったら始まらない。(納得しない私に)あなたが納得したかどうかなど聞いていない。理解したかどうかだけだ。わかったんですか。

対話というよりは叱られているのである。ため息まじりの師としゅんとした弟子がティラミスを食べている。師「私のストレスはあなただけですよ」。

実技では中国式の剣術をやった。中国の剣はアールがついているしなるので絡めるように相手に接し、剣先を固定して弧を描くように動く。片手持ちだが太極拳のように両手のつながりを意識して、片手の先から捻りを加えることで反対側の手の剣をドリルのように螺旋状に突く。

相手が退がるのを追って突いたり、自分が退がって一挙動で発進して突くといった稽古をした。前回やった四股や尺取り虫の重心移動・足使いが活きてくる。均等に重心を置いた両足の片足を外すことで外した方向に進むため、地面を蹴るということをしない。

稽古が終わってから「先生は(自由で悟っていて)いいなぁ・・」と呟いてまたもや師の表情を曇らせてしまった私だが、だからと言ってある朝起きて自分が師になっていたらと想像すると、いくら自称イケメンハゲの師でもそれはそれで元の自分を恋しく思うに違いない。やはり私も自分が好きなのだ。「あなたは結局自由でないのが、悟ってないのが好きなんだよ」と言われるけれど、好きな自分をもっと幸せにしてやりたいと思う、それが稽古する原動力になっている。

だってじっさい、武術の稽古をするようになってから、どうでもいいことが増えたもの。