弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。

護身術には体験の女性が一人参加。主に私が相手役を務めさせていただく。いきなり仰臥位からのガードの仕方、足絡めの仕方やその手技への応用などから入る。合気上げ、陰の力も。

合気上げの稽古にはいくつかの種類があるが、今日のは握られた手首を1コ増えた自分の関節と捉え、その先の相手を自分の身体の延長のように動かすというもの。

これには説明があって、細胞というものはくっつき合って自分の身体の中で完結しているイメージがあるが、実は一個一個がばらけているもの。だから例えば手をつなぐことで、同様にばらけた相手の細胞と一つながりのようになれるという。

かなり抽象的な内容だったのではと思うが、体験の女性は師の話に聞き入っておられた。陰の力で技をかけると「わぁー」と目を輝かせて驚いてくださった。続けて通ってくれるかな?

書道の「楷・行・草」でいえば、私が初めてお会いした頃の師は「楷書」の指導をされていたと思う。受け身の取り方、手解きの仕方などわかりやすく具体的な基礎を何度も繰り返し教えていただいた。太極拳の指導も当時は套路三十七式を3ヶ月の講座ワンクールで覚える、というので小テストなどがあったり。

今はその頃と様変わりして指導が「草書」のそれというか、わりといきなり抽象的なところから入る。師の武術の本質にフィットする生徒だけが残るから、それはそれでいいのだろう。太極拳では型や手順は無理に覚えなくともよいと指導される。今日も「動作の区切りのはっきりしたラジオ体操と違い、太極拳は流れるように型が続いていくので覚えにくいものです」と生徒に説明しておられた。私が最初に現在のような教え方をされたらついていけなかったかもしれない。武術の素養の全くなかった私は楷書の段階で師に出会えたことを自分の幸運と思っているが、師は逆にそのことが今の私の成長を妨げているとお考えかもしれない。

幼児空手+子供空手の様子はこちら。師が蹴りのお手本を見せるのにミットを構えて受けを務めていたが、連打を受け損ねて何発か生身にもらう。恐ろしい。右手首の腱を傷めた。

直近のいくつかの記事に厳しいコメントをいただいたので、その件で稽古後に座学する。あとから読んだ師のツイッターによれば、私たちは「万物斉同」「神人合一」といったことについて議論していたそうだ。そんな言葉初耳である。私には師の言葉がわからず、師には私の言葉が通じない。それは私の受信能力と発信能力の拙さのせいだと師は仰るけれど、私にはもっと本質的な溝に思えてならない。

白桃会は技術でなく技術の背景にある思想を学ぶ場だという。それだけに観念的なことで隔たりを感じるのは致命的なことのように思える。しかしそれは実はどうでもいいことだと師は仰った(と記憶する)。「それどころじゃない、ということです」。命を取られるという時に観念もへったくれもあるか。戦場に在るということ。それはその通りだ。

子を叱ったからといって叱ったことを引きずる親はいないと師はカラッとしたものだが、子たる私はそうはいかない。今歩いているのはRさん言うところの獣道で、もしやどこにも行き着かないんじゃないか。というか、私は本当にどこかに行きたいんだろうか。有と無が同じとか、わからない。いいかげんにしろと師は怒る。「あなたの内面の悩みは私に関係ない。私があなたに悩みを相談したことがありますか」。デュボワさんではないが、エッジに立っているような気分だ。

寝ながら考えたのは、私はただ師から「実相を見る訓練」を受けているということ。それは一神教の世界観・価値観で生きてきて、これからも多分生きていくだろう私が、50余年受けたことのない(また与えてやろうという人もいなかった)訓練なのだ。自分に欠けたところをただ補うのだ。