弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳+幼児空手+子供空手。 護身術では「フィットさせる」をテーマに。まず手首の握り方から。たとえば歯並びの一本が飛び出していると他の歯がうまく噛み合わないが、高さが揃っているとぴったり合う。それと同じで、隙間を作らずみっちりと均等に密着するように握る。すると力任せにやらなくとも相手をしっかり手の内に留められ、結構な圧迫力があるのだった。相手との隙間を「にじっ」とニカワで埋めるようなイメージで握ったらうまくいった。 次に「フィットさせて、撥ねる」。例えば次の図のように、ものを手のひらに載せて緩めてから(フィットさせてから)反らす。力まずに、張る動きだけで飛ばす。それをひじ、ひざ、おなかに応用して相手を投げる稽古をした。 bounce.jpg バレーボールのレシーブと同じ要領 太極拳では体験の方とゲストの方が各1名。師から、私がここ数日考えていることを強化するようなお話があった。何の関連で出た話か失念してしまったが、「そうそれそれ」と思って聞いたのは、強さというものが、想定する特定のものでなく、想定しないあらゆるものに対処できる能力だということ。私思うに、たとえばずる賢くて屈強な大男から自分に悪意が向けられたとして、武術のこころは、この相手に「戦って勝てる」でなく「対処できる」ことにある。どこからのどんな脅威に遭ったとしても、どこ吹く風で日常生活が送れること。 ゲストの方は師のご友人で十年以上の合気道のキャリアがあるという。「筋力のある相手にどうしても勝てず伸び悩んでいる」とのことで相談しに来られたらしい。師は私を「五十代・武術経験なし・ひざ靭帯損傷」と彼に紹介していた。私を武術的仕様で説明するとそういう感じになるのか・・。 子供空手では ● ○ □ の三種の図形を生徒に見せ、●と□という異なる図形の間をつなぐもの、という視点について考える(詳細はこちらの記事に)。形という要素で見、色という要素で見、二つの要素をつないで○という新たなものを生み出す。「とんかつ」と「ごはん」をつないで「カツ丼」が、「猫」と「ロボット」をつないで「ドラえもん」が創られたように。 全く異なる要素●と□の、●でもあり、□でもあるもの。私は「●ならば□でない、□ならば●でない」と今まで考えがちだった。だからいつまでも○に進むことができなかった。 それから股裂きと、「亀」になった相手にかぶさり前転してひっくり返す技。どちらもかけ方の要領はフルネルソンと同じだ。私思うに、フルネルソンのこころは、頭(胴)の後ろを通してパーツを「なみ縫い」することだ。こちらが伸びることで頭(胴)とパーツとが相反した方向に引っ張られて極まる。 fullnelson.jpg 教室が終わってから、師とご友人とが話されるのを横で聞かせていただいてとても勉強になった。実力のある方に対しておこがましいようだが、ぶつかっている壁は私と同じ種類のもののように思えて親近感を覚えた。すなわち「我」という問題である。 バケツにはいろいろの用途があるが、バケツに我があって「自分は水を汲むことしかできない」と考えたとしたら、バケツの用途はその時にこそ限定される。師が「人間には無限の可能性がなくもない」と仰るのはその意味においてである。リソースが有限であること(バケツがバケツに過ぎないこと)と可能性の無限は矛盾しない。でなければこの、しょぼいスペックの五十女がどうして稽古するだろう。 人間の可能性を否定するなら武術の否定と同じです。なぜなら武術は日常の延長にはないからです。 私が武術を面白く思うのは、それが日常の「ちゃぶ台返し」みたいなものだからだ。あっ、ちょっと語弊がありますか。「天動説から地動説への革命的転回」っていうんですか? 帰り際、何となくわたわたして(←よくある)ご挨拶が曖昧になってしまいましたが、Nさん、どうぞまた稽古にいらして下さい。