弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

護身術+太極拳+座学。

護身術と太極拳では体験の方が一人おられ、受身と起立動作から始まり、「抜く」力の使い方など白桃会の武術のエッセンスの部分をおさらいした。私はあえて板の間での前受身に挑戦してみたが、骨がゴリゴリ当たってひじょうに痛い。もう少しクッションになるお肉があれば。

師が技の説明をする際に技のかけ方ばかり集中して聞いていて、いざ「やってみてください」となったときに始まりのシチュエーションを覚えていない、ということが数度あり反省する。

太極拳の時間には、末端(手足)の動きを体幹に伝え体幹の動きを末端に伝えるという、何が主導で動いているのかわからないモビールのような太極拳独特の動きを、そして相手との接触点でぶつからない力の使い方をおさらい。あと虚実分明の説明に関連して兎歩をやった。

単鞭〜提手〜靠〜白鶴亮翅の用法を久しぶりに見せていただく。靠の体当たりは相手の全身をぶっとばすイメージだったが、この用法ではひじに当てていて、そうかぁと思う。提手で取ったのが右腕か左腕かにより、ひじの外側に当てるパターンと内側に当てるパターンとに分かれ、白鶴亮翅でさらにいくつかのパターンに分かれる。「そこはまあ流れで・・」と仰っていた。うんうんと頷く。5年目にして用法の面白味がわかってきた。

稽古後に座学。「五常の徳」について。参考リンク:

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-206.html

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-208.html

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-209.html

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-210.html

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-211.html

武術が求めるのは死ににくさである。死が究極の不自由だとしたら、死に近づくものとは何であろうか。病気、ケガ、身体を拘束されること・・。「他に何か思いつきますか?」と問われ「引きこもり」と答えてから、引っ込み思案のくせに、私は引きこもりを不自由と感じるセンスを持っているんだなと思った。(だから武術をやっているのかもしれない。)

何はともあれ、生物はそれをしないと滅びてしまうという切実な理由により、本来進化への方向性を持っている。進化とは生物が自由と自在とを獲得するプロセスであって、従来なら行けなかったところに行け、できなかったことができるようになることだ。

人間は群体で生きる生物だから、そのなかで(つまり社会という公的な場において)死や不自由を遠ざけるために自ら契約を結ぶという進化をした。それが五常の徳「仁・義・礼・智・信」とよばれるものだ(「常」とは不変の意)。道徳性の起源などは難しい議論になろうし、倫理という概念が絡むとさらに話がややこしくなるが、なにしろ、五常の徳とは経験によって人間が導き出した、関係性にかかわる契約である。何との関係性かというと、

仁:人間 vs 弱者

義:人間 vs 社会

礼:人間 vs 自然

智:人間 vs イデア

信:人間 vs 人間

それぞれの徳についての詳細は上記のリンクをご参照ください。

群体の実相にてらして結実したこれらは、関係性のツールである武術にとってまさに重要な概念である(と書いておきながら、Sの学習はまだほとんど始まってすらいないが)。

今日、師が私にとくに伝えたかったのは、群体においては(群れでなくとも、一人と一人が向き合った場でも)個々の人情よりも徳の方が個々の自由のために優先されるということ・・だと思う。武術において「私」を主張することが全く無意味であると再三言われているように。

東洋思想に馴染みの薄い私が得心のいかない点を問い返しているうちに徐々にヒートアップして、従前から抱えていた本質的な問題とも絡み、バトルとも言えるような応酬になった。師に対し重大な契約違反を犯していることはわかっていたが、この時をおいて先に言える機会はないと思った。中島敦いうところの「胸中の奥所」に触れないでほしい、というようなこと。非礼な弟子に師は真っ向から対峙してくださった。師を師の仰るように親として見ると、血の繋がった実際の親に比べてなんと話の通じることだろう。

終わりの方で交わしたやりとり。

私「私の中には間違っているものと良いものとがあります。間違っているものは正し、良いものは大切にしていくということです」

師「しかし自分が良いものと思っている中にも間違いがあるかもしれないんですよ」

私「はい」

良いものと「思っている」中の間違いは自力で気づくことができない。それを指摘してくれる人が必要だ。さらにその指摘に応じられる自分であることが必要だ。

五常の徳の中で最重要なのは、すべての判断の基礎になる「智」だという。

智の中で、最大のものは、ソクラテスのいうところの「無知の智」、つまり、「知らないということを知っている」です。自分は何もわかっていない、知らない、ということを認めなければ、新しいものを理解することは出来ません。

なにかの格言で、もし木を切らなければいけないなら、その時間の七割を、斧を研ぐ時間に使え、というようなものがあったと思います。このように、何かを学ぶにも、まず、それを受け入れる姿勢、学んだものを砂が水をしみこむように吸収する状態を先に作っておくことが大事です。それが、無知の智を心得た状態です。

私は師の仰るようにバカだけど、その指摘を否定しない程度には利口である。修正可である。私は修正する準備がある。下地作りが大事なら、今の私の最優先の修正課題は、師と親子の関係に、ほんものの師弟になれるかどうかにあると思う。