弟子のSです

武術の稽古日誌

セーフティネットとしての套路

がんばろう、ってこのブログでもよく書くけど「がんばるぞ」と「もうダメついていけない」は表裏一体だ。今のままでは、この二つの情の間を私は右往左往するだけだろう。

師「師が弟子に要求する水準は、プロフェッショナルであることです。プロの覚悟がない人が気分でやるなら師弟と私は呼びたくない。プロフェッショナルなマインドセットがあるなら、向いているいない、やりたいやめたいと言うような低次元な話はありえない。気分でやめる、やっぱり続ける、というような人はプロではない」

先の記事の進化の話にも関連するが、武術するということは対処のエキスパートであること。

義理の親子という契約を結んでものごとを教わるからには、私情より義理を優先するのでなければうまくいくはずがない。師は私に武術家としての命を与えようと、一貫した態度で「親」を続けてこられて、親子になるかどうかは私しだいなのだ。つまり私がちゃんと「子」をやれるか、ぐらつく情に対処できるかにかかっている。

ラグビーの五郎丸がキックの前に行う例のルーティンは、彼に影響を与えたというイングランドの名プレイヤーの解説によれば「あれは一種のセーフティネットだ」という。「刻々と変化しいつも異なる戦況の中で集中を保つために、我々には何か頼りになるものが必要なのです」。

定まった動作をする利点は、その動作に集中することだけを考えることで、私情が介入する(キックの例でいうと「入らなかったらどうしよう」とか)余地を自分に与えないことだという。それが成功への障害になるからだ。

障害を取り除くルーティンか・・私にも何か欲しいな、そう思っていたところ

私には套路があるじゃないか!

と思いついたのだった。長く繰り返してきて、このごろ家で套路しているとびっくりするほど深い鎮静状態に入ることがある。あれを使わない手はないではないか。

情のぐらつきに襲われたら套路する。套路に集中する。選手はたとえ集中に失敗することがあっても、それを減らすため、精度を上げるために成功のイメージに結びつけつつ何度も練習を繰り返すのだそうだ。私もそうしよう。でもって、私情の問題を外部に(師ですね)漏らさずに済むようになろう。