弟子のSです

武術の稽古日誌

今日のお稽古

先日師に頂いたコメントで目からウロコがぱらりと落ち、清々しい気分だ。

生き物の根源の意思は「生きたい」です。それ以外は「私のやりたいこと」でしかありません。

「私の」とついているやりたいことは全部、我執です。

そうか・・。だったら「私の本当にやりたいことは何だろう」とか「私は今本当にやりたいことをやっているだろうか」とかわざわざ自分に問うこともないんだ。私という自意識の宿るこの生き物の指向するところは既に明白なのだから、それにただ添えばいいのだ。つまり死を「不自由を遠ざける」この一点だけ。なんてシンプルなのだろう。

池袋西口公園での稽古に1時間だけ出た。今日もゲスト参加があった。中国武術を修めている方だ。

歩法。足のつま先を任意の方向に向けることで方向転換して相手の側面や背面に回り込む。それから兎歩。また、尖ったものの先端に向かって推進力が生まれる性質を使って歩く。指先・ひじ・肩・・それぞれを先端にする姿勢を作ってやり、それに足をストッパーにしたりしなかったりすることで様々な動きが生まれる。武術ではよく「他者を同一化する」、相手を自分(の延長)として扱うことを言われるが、この歩法は「自分を客体化する」、自身をモノとして扱うからできる動き。他者の同一化と自身の客体化、相反するようだが二つはセット。「太極」の世界はこういうのばかりだ。

呼吸法。吸気で胸にためたものを呼気で出すことで発勁。閉じていたものが広がるイメージ。それを相手に作用させるには、接点でなじみをつくっていること、つまり他者の同一化が肝心カナメ。

ゲストの方は中国武術の師弟制度を身近に体験されており、入門して擬家族の一員になるしきたりなど、リアル『拳児』なお話を聞かせていただいた。私の知らない世界・・! しかし、血に代わるものとして義が最重要なところは師弟なら共通。とにかく、ただごとでない関係ということだ。

このブログで初めて師弟についてふれた記事から3年経つ。いつもひいこら泣きを入れているのに、このとき書いた幸福感は今も寸分変わらない。師弟関係については、毀誉褒貶の激しい本だが中沢新一の『虹の階梯』によい記述がある。いわく、師は「あなたとブッダ(S注・ここは武術と言い換えられましょう)を結ぶかけがえのない水路」である。

求めるラマ(師)にめぐりあうことができたなら、ラマに自分のすべてを投げだすような純粋な信頼を託して、その教えのすべてをまるで瓶の水をそっくり別の瓶に移し変える気構えで学びとっていくのである。・・ラマと弟子を結びつける絆の不思議さを思いながら、虚心にその比類のない知の泉に浴しなさい。

「瓶の水をそっくり別の瓶に移し変える」作業が難航中、というのが目下の(というか、ずっと続いている)状況で、それは、私が私の瓶をなかなか空にできないからだ。

それにしても、弟子であることは本当に「不思議」の一言に尽きます。