弟子のSです

武術の稽古日誌

「道」と「術」2

「生物の歴史は生き残りを賭けた進化と淘汰の歴史で、それはその種の武術の歴史そのものである。つまり生き物は生きようとするかぎり武術せずにはいられない。・・人間の武術が滅びるのは人間が滅びるときだけで、それまではまずいやり方が廃れるだけのことだろう。私の頭の中では、師から教わった理屈により、武術は滅びないということになっている。」

と前稿で書いた私の武術の定義は「生物が死ににくくあるための、自由を獲得するための術」。それが同じ文中の「「術」という立場は幻想を排除し、徹頭徹尾実相(実際のありよう)だけを扱う」と矛盾すると師に指摘され、考え込んでしまいました。

師は次のような助け舟を出してくれた。

世間の人の指す武術はあなたの考えるそれと同一ですか? 今そういえるのは今のあなただからです。世間の人はあなたではない。すでにリテラシーがある人は素人がどうものを考えるかを忘れています。

私のいう武術は稽古や師との対話を通してそう定義するに至ったものだが、師に出会う以前にはどうだったか。武術という呼称すら知っていたかどうか怪しい。師「それが(世間一般から見た)武術というものの現状、実相です」。

過去の私のように名前すら知らないか、あるいは師によれば、知っていても誤解されているのが武術。その定義は「武道の劣化版。武道のように精神性の付与されない、野蛮な殺人術」だという。おお・・「生物が死ににくくあるための、自由を獲得するための術」との何という隔たり・・。しかし師の仰るほどでなくとも私も知っていたはずだ。武術をしていますと人に話して幾度も「そんなふうに見えない」「らしくない」と返された。武術は、格闘技か何かだと思われている・・。

武術は殺人術には違いないけれど、学ぶほどに「殺すか殺されるか」より「生きるか死ぬか」という個の問題にシフトしていく。その本質が危機に対処するための手段であり考え方だからだ。師の言葉を借りれば「知覚と認識の変革」。それは何というか、真にいいものだという感触があって、私は「その考え方」によって人が救われるなら呼び方なんかどうでもいいじゃないか、むしろ誤解の多い現行のより別の呼称があればそっちのがいいのではないかとさえ考えていた。言葉はどうでも「武術的なるもの」が滅びることはない。なぜなら上記した通り、進化と淘汰を繰り返す生物の挙動そのものが武術なのだから。

しかし・・・

武術という言葉の意味を知らない人しかいない世界に武術は存続しうるか? しないんだよ。

師によれば、武術という言葉が残らないという状態、意味を正しく知る人がいなくなる状態が、武術が滅びるということ。仏性というものの存在を知らない犬は、たとえ仏性が存在しても悟り得ないという「狗子仏性(犬に仏性はあるか?)」と呼ばれる禅の公案があるけれど、存在は知られてはじめて存在し、それは人間社会では言葉によってなされるのだから、うーん、言葉なんてどうでもよいというのは間違いだったのかもしれない・・。そもそも、仮称にもせよそれが「武術」というものでなかったら、武術家に「それを武術というのだ」と教わるのでなかったら、その「それ」について今こうして私は語り得ただろうか?

存在は知られなくても存在する、花は誰に見られなくても咲いているという私の考えは少なくとも他者不在であった。

禅の真髄を言葉で理解することはおそらく不可能だが、鈴木大拙などあまたの禅家の「言葉による」甚大な努力によって、また禅画等のビジュアルによって「禅と呼ばれる一般にはよくわからないものがこの世に存在する」ことは一般によく知られている。知られているから、滅びない。

「武術」という名で呼ばれるいいものの存在を正しく人に知ってもらうこと。ただ禅と同じく本質的には言葉以前のコミュニケーション手段であるそれを、どう一般に理解してもらい得るかとなると私には皆目わからない。だいたい私自身が理解の途上にいて、こんなふうに直されてばかりいるのだし。

修行してアーティストを作る道と、オーディエンスを育てる道とが要ります。優れたアーティストがいなければオーディエンスはその分野を求めないし、オーディエンスがいないところにアーティストは存在できない。