弟子のSです

武術の稽古日誌

まず肯定

「人生右肩上がり志向」のなせるわざか、自分が悪くなっているのではないか・以前の方がよかったのではないかという不安には、人を停滞させるものがある。『ART&FEAR 制作につきまとう不安との付き合い方』(D・ベイルズ、T・オーランド)という本に次のようなくだりがあった。

・・著者のひとりベイルズが、ピアノを学びはじめた時の話です。練習を続けたあとで「頭の中では、自分の指が奏でる音よりずっと美しい音色が聞こえるんですが・・」と師匠に嘆きました。

 すると師匠は次のように答えました。「違いはどこにあると思いますか?」

 師匠が師匠と呼ばれる所以は、ここにあります。師匠はベイルズの自己不信を、単純な現実の問題へと向かわせ、不安を財産に変えたのです。

先日の稽古で、師が「上達は目から起きる」ということを仰っていた。上達は、違いを目で見てわかることから始まる。同じものと違うもの、良し悪しの区別がつくこと。いわゆる「目が肥える」こと。

私の動きは硬いとか当たると痛いとかもっぱらの評判だが、頭の中では常に、師のやわらかーい動きを完全にイメージして動いているのだ。それなのに、どこが違うのだろう?

「捨己従人」か・・・・・・・。

私は見聞きしたことを自分のストーリーに落とし込んで理解する習癖があるが、実相が自分のストーリーに合致するとはかぎらない。また相手のいる場合は、相手のストーリーが自分のそれと同じとはかぎらない(というか、よほど親しくないかぎり同じ方がまれだろう)。

自分のストーリーに固執する傾向は加齢で情報の処理能力が衰えるにつれ増すはずだ。そっちの方が楽だからだ。固執は拒絶とセットなので、自分が何かを否定していたり拒絶していると思ったら、師の仰るように、否定する自分をいったん離れてそれを肯定してみる(=捨己従人)作業が必須なのだろう。自分のストーリーに不当にあてはめていないか検証するために。