弟子のSです

武術の稽古日誌

死ぬまでドライブ

パーツを組み立てる等の能力以前に、武術する上で私には大きな、というか決定的な問題が別にあると言い、それは「雑」ということなのである。技の稽古では手順を追うあまり相手への注意が疎かになる。強い相手には胸を借りる安心感からやはり相手への注意が疎かになる。云々。

完全にフワフワ気分の「だろう運転」です。それがあるかぎりあなたは人を傷つける。

相手の状態に細心の注意を払える(つまり、慈しむ)心に、それを体現する技量が伴って、初めて敵を殲滅することができるという。傷つけるつもりがないのに荒っぽい動きとして表れるのは、気持ち(心)と行為(体)のつながりが悪いか、そもそも慈しむ心に欠けているからだとのこと。私は後者を疑われている。技量不足で雑なのではなく、やさしくないから雑なのだと。そう言われて、自分が哀しくなった。

あなたには認知機能がない、と断言されれば肯くほかはない。否定できるだけの認知機能がないのだから。うそつきが自分は正直者だと、狂人が自分はまともだと主張しても詮無いのとおなじだ。

心の故か技量の故か知らぬが、私には人に気を遣う認知機能、やさしさが欠けている。

どうすればいいのか。

たとえば検査で認知機能の衰えを指摘され、免許証を自主返納する高齢ドライバーがいる。自身の機能の欠如がもたらす事故の可能性を考えてドライブを諦める。これが認知機能の欠如した人間が最後の認知機能(それと勇気)を使って示せる他者へのやさしさかとも思う。ドライブという行動のもたらす爽快な気分、見たことのない風景との出会い、見聞、そうしたものを他者のために犠牲にすること。思えば、愛するとは、犠牲ではなかったかしら*。

稽古をやめれば稽古で人を傷つけることだけは絶対になくなる・・。そう思いかけていたところへ、師から次のように助言された。

武術に必要な三つの能力には想像力・感受性・論理力がある。人にやさしくする、たとえば関節技で相手を怪我させないようにするには「やさしくしよう」「気をつけよう」といったスローガンでなく、そのために有効な能力を具体的に運用しなければならない。

問題があれば解決への到達を阻む原因を突き止める。気づかない部分があるのが原因なら、気づけるようになるにはどうすればいいか。正面向きの彫像の側面を想像でデッサンし、実際との違いを比べてみるという稽古はどうか。それは想像力・感受性・論理力の鍛錬になるだろう。型稽古(言うまでもなくデッサンもその一つである)では手順をただ追う、ただし漫然と追わないとは、そういうことだ。

私が運転免許の自主返納の話をすると、「人を傷つけたくない」という強い動機に、たとえば論理力を動員して励めば自動運転だって実現する時代が来るんだよ、と言われた。そしたら認知機能がないのは運転の障害ではなくなる。この方にはどうでもドライブを諦めるという選択肢はないのだ。さすが「俺はやろうとしか言っておらん」の人だ。

「それに稽古をやめたとしても、どっちみちあなたは他のところで事故りますよ」

放っておくと曲がっていく癖のある車を乗りこなす。壁にぶつからないように、人を撥ねないように。そして生涯引きこもらずにドライブを楽しむ。武術するとはそういうことだ。私はちょっと泣いた。

*:武術的には、愛とは理解です。