弟子のSです

武術の稽古日誌

欠点は存在しない?

固体がある条件のもとで液状化する。その現象自体に良し悪しはない。良い現象・悪い現象というものは存在しない、と前回の記事で書いた。そこから考えたこと。

自分にある何かしらの特質について人はそれを欠点と呼ぶけれど、それも絶対的に良い特質・悪い特質というものは存在しないのではなかろうか。その特質を持ち主がよく働かせればそれは長所だし、活かせなかったり、それによって自分や他人に害が及べば欠点ということになる。

私は自分の持ついくつかの(いくつもの)特質について、それを欠点と考え恥じ入っているけれど、もしかすると自信というものは、欠点を欠点でなく固有の特質(=個性)と肚の底から認めることで生まれるのかもしれない。そして人の魅力というものを考えたとき、それはその人の個性に尽きるのだから、言っちゃえばもう、あなたが欠点と気に病むところ、そこがあなたの魅力なのではないですか? 言い過ぎですか? でもまあそのぐらい思ってないと、自信のない人間はすぐへこむから。

そして信頼できる人、たとえば師の指摘など鑑みるに、自分が欠点だと思うところのものは他者にとってはわりとどうでもよく、自分ではどうでもよい、むしろ長所とすら思っているものが傍迷惑だと言われたりするから、ことほどさように自己評価は当てにならない。というか、特質を評価することには意味がない。理解すること。これしかない。

修行における師の試問は、すべて「汝は何者であるか?」ということです。

そして理解するとは慈しむことである。(液状化から連想して)「すぐ泣く」という特質を持った人がいたとして、幼い頃、そんな自分を母親が守ってくれたかもしれないし、守ってくれなかったかもしれないが、いずれにせよ大人になった今、泣き虫の自分を泣き虫として尊重し、大切に扱ってあげられるのは、主人たる自分以外に誰がいるだろう。「ああ私は涙腺が緩いな、これが私なんだ」と。

欠点は存在しない。ただ特質があるだけ。固有の特質を持ったあなたがいるだけ。

付記:自信の有無に左右されるような技術、へこんでできなくなるような技術は使えないので、自信は武術には必要ありませんと師より指摘あり。

うーん・・・・・ではなぜ師はあんなに堂々としておられ、私は堂々としていないのだろう?「汝は何者であるか?」がわかると、自信とか関係なくなるのか?

付記2:おそらく私の求めるものは「自信」というより、肯心自ら許す、の「肯心」なのだと思う。師に教わった言葉で、自分で書いていてどういう事かよくわからないが多分そうだ。