弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

前回の記事に師からいただいたコメント。 あなたは「私」を撓めて無理をして押さえつけたりすることで「公」の人になるのだと思っている。「私」が卵の黄身で「公」が白身や殻だと思っている。 逆です。人の本来は「公」であり、「私」こそ後天的に作られた偽りの自分像です。 ・・・ あなたのいうところの神、ゆずれないものこそが私の言葉でいう公にあたるものであって、それに還ることを拒むのは本来の自己から遠ざかるという事でしょう。 自我の否定は仏教の専売特許かと思いそうになるが、聖書にも「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(『ガラテヤの信徒への手紙』)」というパウロの言葉が載っている。宗教を離れ哲学や心理学の世界でも「主観は思考の産物であり実在しない」ことはあちこちで説かれているし、師のコメントを読んで私もいまや自分を「自我という卵の殻に覆われたもの」と理解した。自我とは自我「意識」である。順序を追っていけばその認識にたどり着かざるを得ない。 つまり人というのはこうした存在である。内に本来の自己(「公」「神」「摂理」「自然」・・)を宿している。 jiga_aru.jpg 「自分の胸に訊いてごらん」とか言いますね・・・。 というか、実体のない自我意識というものに覆われているため「内」に「宿る」ことになってしまっているが、自我がマボロシに過ぎないのであれば人とは本来  jiga_nai.jpg こうした姿のものであるはずだ。 そして、「公」「神」「摂理」「自然」・・外界も同様にこれらの表れであるならば、ひっきょう、自分と外界との区別はないことになる。あるいは、自我意識に遮られてさえいなければ、「私とあなた」の区別もなくなることになる。 自我意識があまりにも肉の感覚に直結し、葛藤や痛みがリアルであるためにたやすく翻弄されてしまうが、実感とは所詮マボロシであると、その虚構性を徹底的に認識することでしか、私はこれから笑顔でまっとうに生きていけないと思う(というか、笑顔で生きるとか生きないとか、意識を一番の興味の対象にすること自体にあまり意味がない気がしてきた・・)。虚構を虚構と知り、それを剥がした「自分と外界に対立や隔たりのない状態」というのがどんなものか味わってみたい。知的生命体に生まれて、そのせいで苦悩したりもしてるんだから、せっかくなら、だからこそ到達しうる場所に立ってみたい。 ・・・みたいなことを胸に抱きつつも、師にお会いすれば「添削しますから前回の稽古から何をどういう道筋で考えてきたか発表してください」と問われても「自分をなくす・・・」と、かいつまみ過ぎたことしか言えない。 それでも師は「自分をなくす」をあらゆる動きに関連付けて教えてくださった。私のうすらぼんやりした想念を具体的な技に結晶させる。これが師について私が舌を巻くところだ。 子供空手のMくん6歳と一緒に稽古。突いてきた相手に合わせる。手首を取りにきた、袖をつかんできた相手に合わせる。努力や筋力に頼らず突く・蹴る。相手から顔を背けて突く・蹴る(その方が身体が伸びる)。腹部に当てられた拳やナイフを逸らす。引っ張り合いから相手をコントロールする・・・。どれも我が出張るとうまくいかない。 「何かを得るには何かを失わないといけない。中学生になるには小学生のままじゃいられないし、結婚したら独身の自由はなくなっちゃうでしょ」と、6歳児に微妙な喩えを使って説明される師であった。
失いたくないという我があると得られるものも得られない。そもそもマボロシであるところの我に固執する無益さ。稽古とは、それを痛感するためにするのかもしれない。