弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

最近、バイトで疲れてしまって文章を書く頭がはたらかない。好きな「コーヒーチェーンで読書」もしていない。店員の接客の様子が気になって本どころではないのだ。

先日、稽古のあとで師に「あなたは変わった。武術に飽きたんじゃないですか」と言われた。確かに最近、師の仰っていることの意味が(内容がでなく言葉の意味が)わからなかったり、遠くの汽笛のように感じられたりする。師「以前は熱中するな、集中しろと注意したが、今は熱中すらしていないと感じる」。それはおそらく私が同時に二つのことができない性分だからだ。師に「カフェのSです」と揶揄されるほど、今はそちらに関心を持っていかれてる・・。しかし、修行における師の常なる問い「汝は何者か?」について、こんなに切実に、こんなに惨めな状況下で考えたことは今までなかったと思う。

働きながら自分に言い聞かせるのは稽古で注意されたことばかり。「つまり」「要するに」言わない。「だろう運転」をしない。ただやる。わかるとできるは同じ。

勤務するお店は駅ビルのテナントなのだが、従業員用エレベーターでは乗り合わせた人に「お疲れさまです」と挨拶する。ある場所では一礼する。ただ教わるだけだと型にはまった印象を受けるが、観察すれば、テナントビルの決まりごとは沢山の異職種の人々が摩擦を避け、お互いに気持ちよく働くために練られてきたものだとわかる。先日の稽古で師が、型稽古の取り組み方として「鵜呑みにするのでなく、型がそうなるに至った理由、作り手の意図を考える」と仰っていたが、ビルのルール一つとってもそこに理由と意図がある。

何の仕事にせよ、人を相手に何かしようとすれば「接客」の要素はついてまわるだろう。社会の一員である以上、生きるということはつまり接客なのだと思う。そして接客とは私の見たところ武術そのものだ。

師は型について、さらに「意味や意図を理解したらそれを汲んで発展させる。そうすることで型稽古は創造的なものになる」というようなことも仰っていた。バカな私はいま自ら選んでつらさを抱えているけれど、つらさの解消だけでなく、何かしら創造するところまでいかないと人間楽しくないだろう。どうしたらいいんだ・・・