弟子のSです

武術の稽古日誌

上野千鶴子さん

「見る」ことと別にもうひとつ、最近考えていること。

先日、稽古からの帰途で師と、あらまし次のような話をした。

「人によって抵抗の多い少ないはあろうが、我々は道を裸足で歩けない。公衆の面前で踊りだしたり、裸になったりできない。赤ん坊は往来で裸にされても恥ずかしがることはないのに、アダムとイブ以来、なぜ人は「こうすると恥ずかしい」「こうすることはふさわしくない」と思うのか。

あるいは化粧。口紅の色は一般に赤系だが、なぜ人は黄色でも黒でもなく、赤い唇を美しいと思うのか。

身体化されていて、ふだん当たり前と思って気づかないが、「そういうものだ」という縛りに我々は縛られている」

術者はこれらを自由に扱えるようになると同時に、無意識に植え付けられているこうした暗示から自由になる必要がある。自分が縛られていることに無自覚な人間は、そうしたシステムを使うのではなく使われる側だからだ。

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-394.html

「そういうものだと思っている、あるいは思わされているもの」は何かを突きとめ、その縛りを解体し、その縛りを利用する側に立つ。それは護身にかなうばかりか、(アダムとイブが局部を葉で覆う前は楽園にいたように)私たちにとって幸せへのよすがとなるだろう。

常識や規範という名で私たちを縛るものは何か。ジェンダー(社会的性差)という視点から解体を試みる社会学者がいる。上野千鶴子という人である。最近このフェミニストの著作を数冊読んだが、彼女の言論と武術の間にはたいへん共通項が多い。というか、仮想敵が同一なのではないかとすら思う(フェミニズムの仮想敵は「男」ではない)。師がブログの記事で挙げられた「女は女らしく」「長男の嫁なんだから介護をするのは当然」「どうせお兄ちゃんには・・」など、まさにフェミニズムが縛りと看破してきたものだ。

考えてみたら、武術もフェミニズムも弱者のための思想、弱者が縛りから解放され自由自在に生きるための思想だから、共通項があって少しも不思議はないのだ。そう考えると五十女の私が弟子をやっているのも、弱者の代表として選ばれたのかなぁ、と思えてくる。

何はともあれ「女」という属性を持つ人間が何に縛られているのか、しばらく彼女の助けを借りて考えたい。その思考は発展して「人間」を縛るものについて知る手がかりになるに違いない。大学の社会学科出身である私は、ここに来て(30年の時を越えて)武術と社会学がリンクしたことに感慨を覚える。結局好きなものって変わらないんだなあ、と。

ちなみにジェンダーを宗教との関連でみると、キリスト教仏教が男性上位の宗教といえるのに対し、神道では最高神が女性である。われらが太極拳の基たる道教はといえば、男性性・女性性を模した陰陽マークを見ればわかるように性差からフリーダムである。太極拳ナイス!!