弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

道で殴られて「社会が悪い!」と叫びながら死んでいくよりクロスカウンターで倒した方が美意識に適う。

師はこのツイートに先行し、

道で殴られたり金を奪われそうなときに「悪いのは私ではなくそういう社会なのだから私には責任がない。だから自己防衛しません」と言っていると殺されます。100年先の理想社会よりたったひとつのの自分の命のほうが大事です。

と書いておられる。座学で教わった「生死事大(しょうじじだい)」とはこういった事柄を指すと思われる。「生き死にのことが一番大事」という、今の私には(そりゃそうだ)という感慨しか湧いてこない、禅の言葉だ。

おそらくブログに新しく載せたこの記事も、関連することを仰っているのだろう。

http://doranekodoradora.blog123.fc2.com/blog-entry-398.html

記事の内容はわからない点が多い。タイトルも、なぜこれが「ほぼ完全に宗教じゃねえかって話」なのか謎。宗教家であるならば、私は師についていっていない。とうの昔に離れていただろう。

記事中の短歌「きりむすぶ太刀の下こそ地獄なれふみこんでみよあとは極楽」は初めて知った。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」には馴染みがあるが、それより「恐怖突入」感があっていいな、などとぼんやり考えつつ新しい本を読もうと開くと、たまたま開いたページに「きりむすぶ・・」の歌が載っていてぎょっとした。こういう偶然てわりとよく起こる。

ところで、前回、前々回の記事で上野千鶴子先生宛にラブレターを書いた気になって満足していたが、宛てて書くという時点で、彼女は、フェミニズムは、自分にとって「対象」なんだなと書きながら悟った。私は武術に宛てて書かない。それは対象でなく「私」の中にあることだからだ。

武術ってmartial artsと訳されるけど、なんか矮小化された訳語だなあと思う。私だったらarts of potentialitiesとか訳すだろう。「軍事」よりも「潜在的可能性」に関わる術、だ。私は、私の(ということは人間の)潜在的可能性を探っているんだ。

潜在的可能性といえば。

稽古でよく、腕や足をモノとして、道具や緩衝材やつかまり立ちのバーとして扱う・頼る、というのをやるけれど、先日、套路をしながら次のようなことを考えた。太極拳ではメリハリなく常に動き続けるが、どこかの部分は必ず「不活」、いわば片麻痺状態でいる(注・楊式では)。この麻痺した部分がすなわち、モノとして使える部分なのではないかと。逆に言えば麻痺した部分をモノとして用いたときに、太極拳らしい力が出るのではないか。

そう考えていたら四正推手で、モノにした片腕に片腕が頼ることで相手のプレッシャーを逃すことを教わった。このときの形は套路のカオ(靠)と相似。ほーらやっぱり・・!

やはり、自分の中に眠る潜在的可能性についてのアート、なのである。

(近ごろ碁の解説を読むのにはまっていて、自分の文章もわかる人にしか通じないのではないかと不安です。)