弟子のSです

武術の稽古日誌

自殺よりは武術

20分に1人が自ら命を絶つ自殺大国、日本。衣食足りて民度も低くないのに、生きづらさを抱える人の多い国。

武術に出会う前までの私は、村上龍という作家にずいぶん勇気づけられてきた。アグレッシブな彼の著作を読むと、東の空に朝陽が昇るごとく希望が胸に湧くのだった。彼の言葉に「自殺よりはSEX」というのがある。死ぬくらいなら快楽を求めよ、全力で自分を救え。世の中のすべてのものはさみしさを紛らわすためにある。落ち込みそうな時はしのごの言わずに、うまいもの食べてぐっすり寝てみろ。

村上龍のメッセージはキャッチーで力強いけど、しかし今、師の武術や上野千鶴子を知ってみて思うのは、彼の理屈は強者のそれだなあということだ。たとえばものの喩えにもせよ、「自殺よりはSEX」は性的強者か経済強者のソリューションだと思う。多くの人にとっては、それができるフェロモンやおカネがあれば苦労しないよ、ってところではないだろうか。「うまいもの食ってぐっすり寝てみろ」にしても、ものを美味しいと思えない、気持ちよく眠れないことこそが問題なのだ。

これという快楽を望めば得られる人がいて、望むものを得ることが幸福の前提条件であるならば、当然のこと、得られない人はそれを悪いことのように思って暮らさなければならない。お仕着せの快楽を得ることにしか幸福を想像できないことは貧しいことだが、そうした人は(かつて私がそうだったように)自分の価値観を疑わない。

私は、自殺よりは武術、と言いたい。武術は「弱者がどうするか」という視点から考えられているからだ。たとえば老化は苦しみの大きな要因になるけれど、武術の世界は老いてますます技が練られた先人の逸話に溢れている。武術は加齢という課題に対し多くのヒントを与えてくれる。

老いている、病んでいる、障害がある、不細工だ、おカネがない、モテない・・社会において「弱者」とされるファクターは多々あるけれど、そのことに本人が捉われていなければ、それはその人の属性の一つにすぎなくなる。この属性を持った「私」が、ありものを工夫したり少しずつ増やそうとしたりして何かかんかやっていく。何なのか想像すらできない快楽に向かって。それは幸せなことだ。

生体とは本来死ぬまでは生きようとするものなのに、この長寿国日本で、身体は生きる気十分でありながら、心が生きる方途を見つけられないって、惜しくないですか。年寄りはともかく若者までこんなことじゃあ・・・そのうち、戦争が起きるかもしれないとすら私は思う。戦争を知る人がいなくなった時に次の戦争が始まる例が歴史上少なくないと本で読んだ。戦時に人は祝祭的な高揚感を覚えるという。事実、戦争中には自殺が減るのだ。

私は、学んだことは私闘にのみ使えと師から教わった。

誰もが一武術家として・・身一つを規尺に物事を考えるようになれば、私闘はあっても、戦争も民族紛争も領土問題もなくなります。

そこまでいくと武術はもはや逆説的な「イマジン」と言った様相を呈してくるけれど、そんな極端なことまで言わずとも、「生きようとする」生体の本来のニーズに立ち返るとき、武術はそのニーズに応える頼もしい選択肢の一つになる。おカネもフェロモンも地位も名声も頑健な肢体もなく、ロクなもんじゃないけどそれはそれとしてごはんは美味しく、お腹がふくれたら眠くてたまらん。心が健康って、救われているって、そういうことではないだろうか。