弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

師によれば「ピザって麺類ですよね」と言い張ってきかないのが私だということだ。「いや違います」と答えても「だって小麦粉でできてるじゃないですか」と強弁する。麺類かどうかは「原材料」でなく「形」で決まるのだ、といくら教えても聞き入れない。認識にない概念を受け入れようとしない。

かように物事の理解になにかと支障がある私に、先週、師から課題が出された。

フルコンタクト空手の突きの基本は直突きだが、蹴りは回し蹴りが多用される。なぜ同じ直線軌道の前蹴りではないのか?」

言われて、ざっくり「空手」とカテゴライズされた直突きと回し蹴りの動画を数本閲覧し、考えたところを師に述べると、なってないと即座にダメ出しされ、次のように指示される。ある問いを解くには言葉の定義をまず明確にしなければならない。すなわち「フルコンタクト空手とは何か?」(冒頭の例でいえば「麺類とは何か?」)。この定義づけのため、先週はフルコン空手の動画を何本も集中して見ることになった。

さらに習慣づけるべきは、問いの対偶(「もし~でなかったら」)を考えてみること(例・回し蹴りでなく直線軌道の前蹴りを使ったらどうなるか?)。また主体がどうするかだけでなく、相手が何をしてくるかも考えなさいと言われた。私は知識を集めることに走りがちなので、最低限の知識は必須だが、そこから類推する習慣をつけなさいとも。

教わった方法で類推して書いた二度目の答えは受け取っていただけた。「未熟だがあなたが自力で考えた答えになっている」。絞られた当座は泣いたけど、乗り越えてみれば、ダメ出しされて良かった。評価されて嬉しいのはもちろんだが、それよりも、理解が進んだことが嬉しい。

勉強して前より少し賢くなったあと、師と、試合とは何か、ルールとは何か・・など問答する。面白い。武術は万事に敷衍できるので、一つわかると、話がぐっと広がる。

試合とは何だろう。試合は(試合であるが故に)安全に行われなければならないから、そのためにルールが定められる。ルールは戦術・技術を規定する。ルールから外れる戦術や技術は、その競技がメジャーになるほどに廃れていってしまう。術の使用範囲を限定してまで勝敗を決しようとする試みは、一体何のためにするのだろう・・

そう動くのが当たり前だと思ってやってきたことも、実はそうした見落とされている限定条件による縛りの結果かもしれない。たとえば両手両足を全部いっぺんに使うのは無理だ、という前提で多くの武術は組み立てられている。だが、それは立っているから無理なのであってガードポジションで寝そべって戦えば可能だった。

限定条件による縛りに自覚的である、ということは、いくらでもしすぎることはないと思う・・これは自戒として。こだわりや思い込みですぐにわからなくなってしまうから。

最近スマホbot相手にうろ覚えの囲碁をしているが、人とするなら勝負事でないことを、という気持ちが自分にはある。私と時間を共にしてくれようという奇特な人を目の前に、勝敗を競い合うだけなんて勿体ない。一緒に何か作るとか、創造的なことをした方がずっと面白いと思うのだ。そう師に言ったら、囲碁だって創造的にできるんじゃない、と言われた。