弟子のSです

武術の稽古日誌

子供空手のこと

助手として子供空手の稽古に参加させてもらうようになってから3年ほど経つだろうか。大変な思いもたくさんするけれど、子供から学ぶこと、空手から学ぶことが多く、負の感情を相殺して余りあるものがある。このところ印象に残った出来事をいくつか。

小学1年生のSくん。元気の塊のような子だが、まだ背が小さくて、組手ではいつも相手を見上げながら戦っている。同級生に「S、小せえ」とか言われても全く意に介さない。性質がいいのか育ちがいいのか、いじけたところのない子だ。

先日の組手では6年生と対戦した。ハンデをつけて6年生は5点先取、Sくんは3点先取で勝ちというルール。5-2で負けて私のところへやってきた(正座する私のひざに乗ろうとするのです)。晴々とした顔で何を言うかと思ったら「オラあんな大きいお兄さんから2点取った」。負け惜しみでなくしんから嬉しそうに言う。人に慰められるのでなく、自分でそれを言えることに私は小さく衝撃を受ける。私だったらこう感じるだろう、「ハンデをつけてもらって、それでも負けた。ダメダメだ・・」と。

組手でそのSくんの相手をした6年生のS平くんがまた、最近の注目株である。彼はぶっちゃけ、それまで乱暴で手を焼くタイプの生徒だったのだが、何がどう彼の中で作用したのか、いつの間にか「あれっ?」というような変容を遂げた。「指導する側に都合のいい、扱いやすい子」になったのではなく(そこは慎重に自分に問うてみた)、大人になった。

粗野だった彼が、組手で小1のSくんを相手に戸惑い、気遣って、やりづらそうに後ずさっている。二人組で技の稽古をしていて、下級生に教えるのに曖昧なところを私に確認にくる。以前は私のことなど異物扱いで、近寄ろうともしなかったのになあ・・。個人的には、人のそんな変化に立ち会えるのは役得だ。よその空手教室と違って師はことさらに作法をやかましく言わないので、時おり学級崩壊しそうにもなるわが教室だが、それだけに、訪れる変化はお仕着せのものではない、自発的なものだと感じる。

先日の教室では、騒いでとっ散らかる子供たちを座らせ、師が次のような話をした。「君たちの多くは、このさき、空手をやめてしまうと思います」(何人もの子がハーイ!やめまーす!と無邪気にレスポンス・・泣)。「だけど、少しでも書道を習ったことのある子はどことなく字がうまいし、バレエを習った子はなんとなく姿勢がいいよね。短い間でもちゃんとやれば残るものです。今の君たちを見て、誰かが、あ、この子空手やってるな、とわかるだろうか? 空手をやっているとわかるようになろう。ふざけて稽古してたらなれないよ」。

師は教え方が上手だし、子供との接し方が丁寧だ。保護者さん受けする折り目正しい教室でないせいか(怪しげな助手もいますし・・)人数的には厳しい運営が続くが、たとえ数は少なくとも、蒔かれた種はバタフライ効果のように、どこでどんな形で芽吹くかわからない。目に見えて報われることの少ない仕事だが、それでもというか、だからというか、人を育てるって尊いことだと思う。