弟子のSです

武術の稽古日誌

元弟子のSです

ブログを始めた当初、4年後にこんなタイトルの記事を書くことになろうとは思いも寄らなかったが、前回の記事に書いた「弟子であろうとするSです」なんて認識は甘く、既に師弟関係は解消されていた。・・といっても、稽古は条件付きで継続中だが。

師のブログから引用すれば、私の仮破門の理由は、生き死にに関わる術を教え教わるという信頼関係の土台を私が無視したせいだ。一つ間違えば死に直結する迂闊な失敗を繰り返す。教えをなめ、やり直しがきくと甘え、他人に意見を求める。それは武術への冒涜であり、無礼で、不快極まりないものだと師は言われた。

私が再び弟子となる条件は、

・今後一年間、師から見て稽古態度に問題がないこと

・私がそれを希望すること

である。

弟子としてものを学ぶ態度。それを師は「出家」という。師の教えを唯一絶対のものとし、他にセカンドオピニオンを求めないこと(「我を張る」とは自分というセカンドオピニオンを尊重することと言えよう)。師「出家であるはずの弟子が俗界の人の意見を聞き、それに従うと師に告げる。それは決別です。釈迦の弟子が釈迦にそう言うか、キリストの弟子がキリストにそう言うか、考えればわかること」。なので厳密にはそれが本でも人でも、師の指導の下でなしに師以外に問うという行為はすべて関係の否定であって、師を信頼していないと宣言するに等しい。

一般的な感覚からは外れているかもしれない。しかし反抗的とはいえ私はその約束事を是としてやってきたし、師は師で私の「弟子からぬ態度」をこらえて教えてきてくださった。ずぶの素人が50歳を前に稽古を始め、数年でいくらかでも強さを獲得できたのはこうした師弟関係に恵まれたからだ。しかしもう曖昧にしてはおけない、ためにならないと師は判断されたのだと思う。事の重大さをいいかげん分かれと。

今後私に教えるとしたら「障害者枠」でとります、と師は言われた。弟子に戻りたいのなら、人を人とも思わぬ不快な行為をしてしまう障害、病的な欠落が自らにあると認めよ。私が自分自身を健常と言い張るなら、確信犯なのでそんな「無礼」な振舞いをする人間にもう教えることはない。しかし外部の機微がわからないという障害がさせたものならば、それは責められないので「非礼」として誤りを正しましょうと。

「健常者」という自己像に沿って社会生活を送る者にとって、自己像を「障害者」「病者」と改めるのは正直たいへん抵抗のあることだ。「なぜそこまでして?」「危険だ」という周囲の声も聞こえてくる。身内や友人の目からすれば、(彼らが問題視していないところの)自己をわざわざ否定する、そんな学びを続けることの方がむしろ尋常でなく映るだろう。

反抗的な私が、にもかかわらず、迷いなくいっさいを委ねるものが師の向こうにある。私であって私でない何かが、師であって師でない何かを指向する。その指向先を、師の言葉を引いて「理」「法」とよぶならば、私が修行を求めるのは

「行」によってしか理・法と同体になることが出来ないから

である。理・法と同体になろう、強くなろう、良くなろう、明日は檜になろう・・。指向することそのものに私は安寧を見出す。だから理と法の窓口たる師に対し、今後(弟子であろうとなかろうと)私のすることは決まっている。教わる態度で教わる。我思う、の我をなくすこと。それは稽古の前提で、中核で、行き先だ。