弟子のSです

武術の稽古日誌

『聖の青春』

前回の記事に対し、私を心配してくださる方からいくつかの親身なご意見をいただいた。ありがとうございます。

『聖の青春』という映画を観ました。早逝した天才棋士村山聖の物語ですが、劇中で彼が声を震わせて「勝ちたいんじゃー!!」と叫ぶシーンがあります。つまらない将棋には目もくれず、至高の将棋だけを見つめている。「勝ちたい」。最高の勝負を勝ちたい。性格は異なりこそせよ、ライバル羽生も同じく勝負に憑かれた人種であることが劇中で確認されます(このへんフィクションぽいけど)。数々の登場人物がそれぞれのスタンスで将棋と関わっている様子が描かれますが、聖や羽生は将棋を選んだというより「幸か不幸か」「選ばれてしまった」人達であるかのようです。将棋に関わっているというより、将棋そのものといったような。聖は珠玉の棋譜を残して志半ばで死んでいきます。観終わって考え込んでしまいました。生きるとは、幸せとは、勝つとは、勝ちたいとは、どういうことだろうと。

私はこれから先どうなるのかわかりません。わかるのは、自分が(さすがに武術に選ばれたなどと自惚れてはいませんが)聖と同じ「勝ちたいんじゃー!!」タイプの人間だということです。私は天才棋士じゃないから、ただの因果な性格の女です。聖は呆れるほどのわがままですが、我は突き進むと無我になるんじゃないか。捧げることは得ることと違わないんじゃないかと、映画を見て思いました。聖が何を得たかは、今の私には正直わからないのですけれど。

強くなりたいんじゃーと思う、だから「あなたの視野は今とても狭くなっている。そのことに気づいてください」という指摘をいただいて「それは、今の私はとても弱いということだな。どうすればいいだろう」と素直に思いました。強さを求めて弱くなってちゃ、自由を求めて不自由になってちゃ意味ないので。(そういえば聖も「意味がない」ってよく言う。)

私の生活はそうやって私を心配してくれたり見守ってくれたり応援してくれる人に支えられています。「公・私」は混同してはならないが分断されたものではなく、お互いに下支えしあうものだと最近考えるようになりました。このブログももっと公私のバランスのとれたものにしていきたい。私の記事を読んで「居てもたってもいられない気持ち」になったと言ってくださる方の厚意に応えたいと思います。映画じゃないけど、見てくれた人に、いいんだか悪いんだかわからないが何か届くものがあるような生き方がしたい。