弟子のSです

武術の稽古日誌

失敗メモ

水曜日から稽古している「呼吸投げ」、師のツイートによれば「気で導く」技だということだが、大変に難しい。正式名称を知るまでは(シャルウィダンス投げ・・)と心で呼んでいた、そんな社交ダンスのような誘導から反転してかける投げ技だ。それは次のような要素から成っている。

1. 対向した相手の手をクロスで取り、引っ張り合いにならないように体捌きしながら裏に入身するための右手の動き

2. 背中側からそっと押して相手の進む方向を促す左手の動き

3. 自分を中心に相手を円状に誘導、その後反転するステップ

4. 横の円状から、縦(下方から上方)の円状の流れを作る上半身のうねり

5. 腰が先導して投げる裏打ちの要領

要素のそれぞれがうまくいかないというより、冒頭の「気で導く」ができていないことが全てに祟っているようだ。師も、手順を追うのでなく、ただ言われたまま見たまま動けばいいだけだと仰る。手順はできた後についてくるものだと。

しかし師はこうも言われた。できることの理由は必ずしも説明できないが、なぜできないかには説明可能な理由がある。それを部分から帰納法で考えよと。そして私がどこでつまずいているかをさくさくと分析してヒントを下さった。それは本来自分でしなくてはいけないことだという。そしてできない理由を次の稽古までに考えて文章にまとめてくるように仰るのだった。

失敗は、それを命じられて「えええ・・!」と思わず漏らしてしまったこと。私の「我」が、稽古ではご法度のそれが、顔を出した。いけないとすぐに気がついて謝った。「すみません、今のは悪い私が言ったのです」。師「そんな言い訳が通るなら、どんな悪事も "私じゃなくて悪い私がしたのです" で済むでしょう」・・。

帰途、反省しながら考えた。「我」の言い分はこうだ。(できない理由がわかるくらいならとっくにできてるよ・・)。しかし「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と戦国の諺にもあるように、そこを考えるのが師仰るところの「認識外の領域を認識する」ではないか。認識していないため実感として「ない」だけで、なぜできないかの理由は「ある」。結局のところ問われているのは、できるようになりたいか、ならなくてもいいかの意思だけなのだ。考えよ、考えよ。