呼吸投げがなぜできないか考えた末、それは「合気ができていないから」と「最低限の基本動作が不確かだから」だと結論し、合気なんて一朝一夕でできるものでは到底ないのだから、稽古時間を1分も無駄にすまじと稽古前日にレポートを師に書き送る。水曜稽古でお会いした師は「読みました」とだけで感想も何も仰らず、そのかわり「ではもうできるようになりましたね」と仰った。
シャドーで呼吸投げをしたところ、もういきなり、初動からおかしいと言われる。私は自分の提出した二つの答えが正解なのかどうか不安になった。何も言われないのは正解だからだと(便りのないのは良い便り的に)思っていたが、違っているのだろうか? 稽古中にそれを師に確認すると、私の質問が師の言葉とかぶり、その時仰っていたことを聞き流してしまった。
「レポートのことはどうでもいい。私は今あなたに何と言いましたか?」と師に確かめられた時には話の意図がわからなく、聞き返すことになった。
私「すみません、レポートの答えが合っているかどうか気になって聞き損ねました」
師「なぜできないかの答えが合ってればできてるはずなんだから、できてないってことは間違いだということでしょう」
私の我の言い分(でも、今はできてないけど努力の方向性としては間違ってないということもあるんじゃないだろうか・・)
師「あなたは自分の言いたいことにこだわって私の言うことを右から左へ聞き流す。それが師の話を、というか、人の話を聞く態度ですか?」
そして師は「あなたができないのは "合気ができていないから" なんて高級な理由じゃありません」と仰って、いくつかのごく具体的なポイントを教えてくださった。各々がなかなか難しくてひどく時間がかかったが、ポイントがなんとか押さえられるようになると、洗練された形ではないけれど、技がかかった。数回成功した。それらの動きの要領は、他の技にも応用できる汎用性の高いものに思われた。自分では0.1ミリも考えの及ばなかった、かすりもしない答えであった。
模範解答を見せられてから自分の出した答えを省みると、ふわっとして、ともすれば「合気は一生かかっても身につくかどうかわからないものだから」とできないことのエクスキューズにもなり得るものだったと思う。直すべきはもっとずっと実際的なこと、そこを変えれば即効性があること、であった。
師によれば、レポートは提出など二の次で、出来映えや正誤を評価するために書かせるのではない。それは師のブログの記事にある
常に自己を点検し、補い、修繕する
稽古の一つなのだった。自分についての見えないこと、もしかしたら見たくないことを見ようとすること。誰かに命じられてでなく、自分からそれができること。
おまけ:上述の師の記事中「武術は "死にたくない" がモチベーション」といった内容の記述があるが、当日の帰途に師が、強さとは「自分がどれだけ死ににくいか」でもなく「どれだけ人を生かせるか」かもしれない、とふと仰った。それが私にも「新機軸」で心に残っている。