弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ

3週間ほど更新しなかった。何をしていたかというと、めずらしく働いていたのだ。私は翻訳会社に外注スタッフとして登録しているのだが、時おり私の手に余るようなチャレンジングな仕事がくる。今回もそんな作業と格闘していた。無理かと思われる仕事も、終わってみればいつも何とかなっている。

稽古の方もこの間に一つ進展があった。

子供空手の稽古に参加しはじめて3、4年経つだろうか。この教室は中野に本部を置く「護身空手・木村塾」の指導員として師が教えているものだ。いくつかの型稽古があるのだが、入門した最初に習う短いものを除き、私はそれらの型がさっぱり覚えられずにいた。短いものも、師がするように技名をコールしながら動くことができない。生徒にも保護者さんにも師のアシスタントとして映るだろう私が、そんな状態で道場にいるのは身の置き所がないようなことだった。

師に動画を撮らせていただき、瀬尾さんにも何度も説明してもらい、道場で繰り返しノートを取った。それでも覚えられないことから、金曜の空手がつらくなっていた。無能でぶざまなアシスタントだ。套路もナイハンチも短期間で覚えられた経験があったから、これは型との相性が悪いのだと半分思いかけていた。言葉を換えれば、覚えられない自分を許しかけていた。

そして先日、師に「子供でも週1回の稽古でいいかげん覚えるものを、これだけ長年やっていて覚えられないのはもう自分で訳がわかりません」と話した。「どうしても覚えなければダメですか」。太極拳套路の順序を覚えさせることにさほどこだわらない師だからである。

師は、覚えることの要不要より「覚えられないこと」が問題だと仰った。「方法が間違っている」。それは次のツイートのような話だったが、すぐには理解できなかった。

 画像をプリントし、その画像をスキャンしてまたプリントする、というようなことをしているとどんどん劣化していく。型や技をノートにとって覚えようとする人もその傾向にあり、すでに技を練習するのではなく「技を言語化したものを復元する」という、ややこしいことをしている。

 そうなるとディティールが全部すっとんだり左右が逆になるなど、言語化しそこなった部分がごっそり失われたまがい物にしかならない。そもそも対象と自己を同一化しなくてはならないのに、言語化するという翻訳をひとつ入れるというのは、より技を自分から異物化してしまっている。

 技をノートに取るということが有効なのはニュアンスや感覚に対する口伝やイラストで書き写すことで、それでさえ三次元の現象を二次元に落とし込むのだから劣化は免れない。名演奏を再現できるのは耳コピからであって譜面だけでは不可能なのと同じだろう。

そのとき言われたことは、あと

・稽古を苦行と感じるなら、どうすればそれを遊行にできるか考えること。

・出来損ないのアシスタントとしてでなく、弟子として稽古に参加すること。

すんすんと泣きを入れながら家に帰って、考えた。

太極拳教室で、套路を覚えるべきか否かという話が時々出るが、そのたび私は(迷ってるヒマがあったら覚えちゃえばいいじゃん)と思っていた。考えてみればそれは、自分が難なく覚えられたから言えたのだ。私はいま、空手の型は覚えなくて良いと思おうとしているが、覚えられないからと自分にそれを許すのはダブルスタンダードではないか。そう思いついたら覚えない訳にいかなくなった。

そして、套路やナイハンチを覚えたときの「動画を集中して見てビジュアルで記憶する」をまだやっていないことに気がついた。覚えようとする型は長く、動作がいくつもあるので、以前撮らせていただいた師の正面からのアングルの動画をビデオ編集アプリで反転し、動作のまとまりごとにカットして、それぞれスロー再生できるようにした。それをパソコンで再生してパソコンの前でミラーリングするという方法をとった。

体を動かしながら再生と一時停止を繰り返すうち、見分けのつかなかった動作が、意味のあるまとまりごとに一つずつ頭に入るようになってきた。この作業に、なるほど言葉は介在していない。そしてうっすら法則性が見えてきたりすると、わかることが楽しくなり、冒頭に書いた英語の仕事の合間に、動画を見て覚えることが息抜きにすらなるのだった。最後まで覚え切ったときは思わずロッキーのポーズをやっていた。できた。覚えられた。型稽古の準備をやっと整えたに過ぎないけれど・・。

ツイッター快哉を叫んだら、師から即リプライが届いた。

「真面目にやれば三日で覚えられる形を何年やっても覚えられないと言い張っていた」が正解です。

子供空手の型が覚えられないのはそのボリュームのせいだと思っていたが、できてみれば、「記憶する」とは脳のHDDの容量を食うことではなく、回路を作ることだった。

「私にはできない」「今度こそできない」「今度という今度はできない」・・難題に接するたびに思うけれど、「できない」とは「正しいやり方が見えていない」「問題と正しく向き合っていない」ことと同義なのかもしれない。道はいつも師の一言がきっかけで見えてくる。今回のそれは「出来損ないのアシスタントとしてでなく、弟子として振る舞え」だった。

アシスタントとしてなんとか格好をつけようとか、頼まれてもいないのに何考えてたんだろう。そんなの自分を含めて誰のためにもならないし、なにより武術の(ということは師の)求めに応じているとは到底思えない。それなのに聞いたときはギョッとして「今何て仰いました?」と訊き返すほどだった。事ほどさように「真面目」でないことは自覚しにくい。つらいというのは自分が何かを適切にやれていないこと、真面目にやってないことのサインだ。