弟子のSです

武術の稽古日誌

Go and Fence!

師がブログで感想を書かれていた『こころに剣士を』、1月の末に観てきた。映画を観るためというよりは、師の感想文を理解するために行ったという方が正しいけれど。

行く前に英語タイトル(『The Fencer』)を師から聞き、フェンシング(fencing)という競技名が「fence(柵→守る)」に由来することを知って目がひらかれた。そうして観たら、劇中でも主人公の体育教師が「フェンシングは突いたり打ったりが主体の競技だと思われているがそれはちがう。大切なのは精確な間合いのセンスだ。」と生徒に言っている。フェンシングってああ見えて「守る」競技だったんだ!

トーリーは秘密警察に追われる主人公が田舎町で子供にフェンシングを教えるというもので、師の文章を丸写しすれば、「最初はなし崩し的に始めた指導であるが、子供たちの熱意に打たれ主人公はフェンシングを教えることに情熱を燃やすようになる。そして、見つかれば強制収容所送りになる危険を冒し、レニングラードでの公式大会に子供たちを連れて行く。子供たちとの約束のために。」なのだが、大会行きをやめてと懇願する恋人に、彼が

I feel as if I've been running all my life...And I'm tired of it.「ずっと逃げ回ってきた気がする・・もう逃げたくないんだ」 ※オリジナルは英語ではありません

という台詞があって、ここから「fencer=守る人」であるとはどういうことかが推し量られる。「守る」には受け身なニュアンスが伴うけれど、それは「逃げる」ではないこと。むしろ逃げないためにfenceが要るのだということ。

で、主人公は秘密警察の待つレニングラードに向かうのだが、私思うに彼がそうしたのは、剣士たるものそうすべきという大義(騎士道精神というんですか)に従ってというよりは、もっとシンプルに、身を危険に曝しても生徒を大会に連れてってやりたいという愛情が勝ったからじゃないのかな、ということである。

赴任した当初、同僚(のちの恋人)に「ほんと言うと子供は苦手なんだ」と主人公に打ち明けさせてから、感性豊かな生徒とのやりとりを通して、教え教わる者が慕いあっていく様子が沁み入るように描かれる。ようは「そうするだけ子供たちが好きになっちゃった」んだと私は思う。

「フェンサーであること」はこのとき彼を外側から律するものというよりは内なるバックボーンだ。「もう逃げるのも嫌になっちゃったし(I'm tired of it)」という。フェンサーだから。

たとえば、餓死刑の囚人の身代わりになったあのコルベ神父も、「彼でなく私が」と言ったそのとき、行為の価値ということを考えてしたというより、自然な情動からだったと私は考えている。価値とはただ後の人が与えた称号であって、むしろそうした「大きなもののためにやってない」点にこそ、神父である(神父としての、でなく)彼の行為の本質的意義があると思われる。そして私がこう考えるようになったのは、ひとえに、価値は幻想であるという武術の教えに触れたからだ。

映画を見終えて師の感想文を読み、いかにも「金剛界」に身を置く師らしいなあ、と思った。

金剛界」「胎蔵界」とは密教の言葉で、この二つが世界を作っているとする。金剛界は理であり剛であり、客観性が支配し、智慧をもって「裁く」いわゆる父性原理の世界だ。対する胎蔵界は情であり柔、主観が支配的で、共感・慈悲をもって「ゆるす」母性原理の世界。師の記事に詳しいが、ここで師は次のように書かれている。

武術はどちらの世界のものか、というと、基本的には理の世界のものです。・・・客観のある人間は主観も持ち得ますが、主観しかない人には客観という概念はもてません。

武術家としての師から「胎蔵界のドロドロを持ち込むな」と戒められてきたのもこの故である。

実際の人間は太極図のように異なる要素が渾然一体となった存在なので、たとえば男だから金剛界、女だから胎蔵界と単純に二分することはできない。ひとりの人の中に金剛界胎蔵界とが共存する。私は個人としての師にしばしば胎蔵界の要素を見出すし、私自身の中に金剛界を見出しもする(ウソだという人もいるでしょうが、だから武術がやれているのです)。

で、私のこの感想文は『The Fencer』を「胎蔵界」サイドから見たとき、ということで読んでいただければよいと思う。

この映画、師は「武術指導者として多くの場面で感情移入していた」とのことだが、私はもっぱら生徒として感情移入して見た。聡明で感受性の鋭い教え子のヤーン(美形)が試合で、先生の姿が見えてから俄然動きが良くなるところとか、補欠のマルタが先生と目と目で会話するところとか・・。(ちなみに表題の 'Go and Fence!' は急遽試合に出ることになったマルタを主人公が鼓舞する台詞です。)

あとで師に「先生との立場の違いを感じました」と話すと「あなたは生徒じゃないでしょ」と言われ、武術家ならば受身でなくそれを伝える側に立っているはずだ、みたいな話になり、そのことについての対話は今も継続している。それは稿を改めて。

それにしても、稽古でいま前腕や短棒でもって身をよけつつ攻めるというのをやっているけど、フェンシングではあんな細身の剣一本でフェンスするって、何だかすごいなあ。