弟子のSです

武術の稽古日誌

失敗メモ

先日、師がツイッター上で名指しはしないが私について「内心では師より自分の方が偉いと思っている。なめている」と指摘された。それは私の心情とかけ離れているため「武術において私は師にこれ以上ない敬意を寄せていて、指摘に関して修正のしようがない」と伝えたところ、師は重ねて「なめるな」と仰り、問題点を説明された。理解した点をブログ上で総括せよとのことなのでそうする。

問題1:師が教えようとしていることより自分の知りたいことを知る方が優先度が高いと判断していること。

これはたとえば、自分の課題とその日の稽古内容との関連がわからず、稽古後に「質問は?」と水を向けられたとき、その日教えられたことでなく「先日の課題のことですが・・」といった疑問を投げかける、というかたちで表れる。師は生徒の課題を本人より分かっているから、課題の答えはその日の稽古に示されているはずで、それを類推せず、自分の関心にヒットする話しか覚えていないのでは教わる意味がない。

また、先日開かれた句会において、皆に良かれと「以前私に教えてくださった句作のコツをまた教えてください」と重ねてリクエストしたこと。師は相手に合わせて教え方を変えていて、私に教えるのと同じ仕方で別の人に教えるとはかぎらない。しかるに私のしたことは「ゴリ押し」だった。道場での稽古では絶対しないようなことを句会においてなぜしたのか。それは問題2に挙げるような理由による。

問題2:武術を狭義に解釈、冒涜していること。

私は、身体的攻防に関わることが師と自分をつなぐ唯一のものだと心して稽古してきた。それは師に「我々は、肉体的な実際の攻防に耐える自分をつくる努力を通してしか手に入らないものを手に入れようとしている」と教わったからだ。思索偏重とたびたび言われることへの自戒もあった。

師にお願いして開くことになった句会だが、それは身体的攻防とは趣を異にするものと私は捉えていた。だから稽古の時間という意識が薄く、今から思えば「ひとり無礼講」してしまった。句作を通して自分の内面を見つめられ、「思いのほか」武術的に得るものがあったな! などと思っていた。

しかし師は最初からこれを稽古(「吟行」)としておられた。句会は身体的攻防とは別物だと思っていました、という私に師は「身体とはなんですか? 脳は身体ではないのですか? 脳を使う句作は身体的攻防じゃないんだ、あなたには道場での時間しか武術じゃないんだ、へえ」と仰った。

句会では師の講評の時間があったが、そんな具合だったから、私はおしゃべりに興じるだけで師の言葉をノートもしなかった。稽古ならば、師が誰の作品をどのように評し、どう添削するかを注視していなければおかしい。

また、句会は月一回だが、師は「それ以外にも作って私のところに送ってよい」と言われた。句会という与えられた場で集中して考えることの良さを感じていた私は、それはしません、と答えた。稽古ならば、これは課題を与えられたのだったのに。

また師が言われるのは、身体的攻防と別物ならば教わる場で人をなめた態度をとっていいというのがそもそもおかしいとのこと。「なめたらいけない人(場合)」と「なめていい人(場合)」を区別しているのは、師一人を句会でなめているよりさらに悪い。これは武術全体、人間全体に対する冒涜であって、つまりは私(S)自身をもなめていることだ。

問題3:切り口上でものを言うこと。

切り口上とはたとえば、師がなめていると言っているのに「私の先生への敬意はこれ以上修正のしようがありません」と断言したりすることだ。私はポジティブな意味で言っているので自信満々な物言いになる。しかし私が師をなめているという前提では、それは「私の先生への敬意は(この程度のもので)これ以上修正のしようがありません」の宣言になる。

自分の考えの枠内でこれ以上ないほど尊敬していても、師がなめていると言ったら「私は師をなめている」、そこから考えなければならない。「なめていない」と言うことが「なめている」のだ。

問題4:教わることに自分の思いや解釈や意図を入れること。

師について数年武術を修めてきた私は、行動の規範が「先生に教わったこと」によっている。ところが新たに教わるなかで矛盾が生じることがある。すると自分の中で「あの時先生はこう言ったのに」と混乱が始まる。自分の論理的解釈によって整合性を図ろうとしてもうまくいかない。私の認識からは矛盾でも、師の(ということは武術の)側からすれば矛盾でないからだ。私は武術の認識に自分を広げようとしているのだから、矛盾に思える物言いも「あの時先生はこう言った。いま先生はこう言っている」と各々をそのまま受け取ればいいのに、そうしないのは、自分の認識で処理しようとするからである。

以上のことから、私は師をなめた態度をとっており、それは修正の余地がある。

総括に欺瞞や保身や言い訳があれば、今後の稽古への参加を認めないということだ。そのようなものが入らないように書いた「つもり」だが、もとより浅薄な修行中の身でもあり、自覚しないそれらが顔を出すかもしれぬ。そのときは私の稽古もブログもこれで終わりになる。(書きかけの記事があるので厳密にはそれが最終回になります。)

私の思いは「身体的攻防に耐える自分をつくる努力を師のもとで続けたい」。だからどうかこの文章にどんな欺瞞も保身も言い訳も、どんな我流の思いや解釈や意図もありませんようにと願う。しかしこうして自分の真意を伝えたいという気持ちが、すでに保身なのかもしれない。