弟子のSです

武術の稽古日誌

未だ見ぬ蹴り封じ

打撃対策についてはそれなりに怪我も重ねてきたが、痛い目をみれば動物なら何とかしようとするはずという師の予測とはうらはら、いまだ有効な動きができていない。

何年も課題にしてきて、自分はとりあえずこれでいこうと決めたスタイルがあった。それは「(多少打たれるのは止むを得ないとして)ダメージを最小限にし、とにかく相手にとりついて倒す」というもの。とりついてしまえば打たれないというクリンチの発想だ。

しかし打たれるのをよしとするこのスタイルは使えないようだ。手加減されているからいいものの、小6と組手しても「相手が本気で殴る蹴るしてたら終わっていた」と言われる。(フィジカルの貧弱さを思えば指摘されなくても使えないとわかりそうなものだが、そこが間抜けというか・・。)

打撃を受けてしまった局面のためにダメージを少なくする稽古はするけれど、打撃対策の本質はそこにはないという。たとえば推手は「崩されたとき」の動きを身に付けるための稽古ではない。「崩されないため」の動きを身に付けるためのもので、崩されているのはどこかが間違っているのだ。打撃対策も同じく、打たれてどうするかより、打たれていることが既に失敗なのである。

これは一事が万事であって、修行が進むにつれ、たとえば生活上の悩みなどもその解決を考えるのでなく、解消、そもそも悩まないような考え方ができてくる。「つらいのはどこかが間違っている」という教えをしんから理解すればそうなる。

さて、師によれば「蹴りは、標的になりさえしなければ、それほど当てられるものではない」。師の武術において、打撃は「手技が1:足技(蹴り)が3:それ以外の要素が6」で、「6」の部分に目を向けないかぎり学んだことにならないと言われた。

「それ以外の要素」について今まで学んだことを整理してみる。「標的にならない」とはどういうことだろうか。

1. 正しい受け方、払い方。正しい受けは手腕でやらない。手腕を起点(不動点)にし、それ以外の部分を動かして守るもの。

2. 「違和感」というキーワード。たとえば套路では、進みたい方向のストッパーを外してやることで自然な動作の流れができるが、その際の「これがストッパーになっている、という感覚」それが違和感だ。違和感をなくしてよどみなく流れる、これが太極拳である。

いっぽう、攻められないとは「攻めるのに違和感がある」状態を作ることと言える。たとえば、正中線を相手に奪われた体勢から殴ったり蹴ったりすることはむずかしい。それは、そうするには違和感があるからだ。

3. 「正中線」というキーワード。たとえば構えにおいては、前方の手足を正中線の延長として捉える。差し出した腕をサイの角に見立て、角で受け、角で逸らし、角で攻める。ぶつかり稽古をこの意識で行うと俄然しっかりと安定する。

また、腹に蹴りを食らってうずくまることが師との組手でたびたび起こるが、これは正中線が「がら空き」だからだ。

4. どんな学びに結着するのか、稽古の意図はまだわからないけれど、最近句作を指導されているのもおそらく何か関連するものがあると思われる。稽古とは程遠いイージーな気持ちでお願いしたことが、教わる内容とその後の叱責からそれどころではないと悟った。

人類最強の男として「ヒョードル」という名をかつて師に教わった。だからヒョードルは私にとって最高の強者の代名詞だ。打撃対策が真に身に付いたと言えるのは、ヒョードルと「勝てはしなくとも負けない」組手、いや戦いができるようになった時。それまでは「わかりました」とは言えない。