弟子のSです

武術の稽古日誌

俳句はじめました

さて、稽古への参加を金輪際認めない、など時折お父さんに「押入れに入れられ」たりしながら(師がそう仰った)修行はつづく。このブログにも新たなカテゴリーを加えることになった。

それは「俳句」です。

今までに二度開催されたが、句会は道場を離れた稽古の一環、いわばフィールドワークだ。句作も脳という身体を使った術だからである。ちなみに私の俳句歴は0年。厳密には数年前に師にコツを教わったことが一度だけあるけれど、基本、ずぶの素人である。

句作がどういう点で稽古になるか。

我々修行者は日々「武術そのものになる」べく研鑽しているが、武術になるとは何ぞやというに「入神」することだと師は仰る。入神とは忘我、究極の遊びの状態であって、人がこの状態にあるとケン玉は必ず棒に挿さり、ゴルファーはホールまでの芝の筋が完璧に読め、戦いならば動けばそれが技になる。ヘッセ『デミアン』の一節、「ぼくたちの心の中には、誰かがいて、その誰かが、なんでも知っているし、なんでもしようと思うし、なんでもぼくたち自身より、じょうずにやってしまうんだ(実吉捷郎訳)」の「心の中の誰か」に自分が一致した状態といえよう。

生きてきて、何かが「無我夢中でよく覚えてないけどうまくできた」経験のある人は少なくないと思う。私にもある。アスリートなんかだともっとクリアな意識の状態であるようだが、その入神状態を恣意的に作れるのが武術家だとのこと。

初回の指導で師は「句を詠むとは ‘感じを伝える’ ことです」と仰った。その後じっさいに句作してみて、感じを伝えるためには(考えれば当たり前のことだが)まず第一に「感じなければ始まらない」ことがわかった。その「感じる」に係わる、自失するまで感受性が全開した状態が「入神」だという。よい句はよく感じることから生まれる。つまり、句作は入神の稽古になるのだ。

「感じを伝える」には、まず「感じる」。そして次に「伝える」。この段におよんで初めて技術の出番となる。伝えるための工夫。人と共有できる、伝わる表現であること。語呂がいいこと。師は、できた句は声に出して読んでみてくださいと仰った。

俳句には17文字という極端な字数制限があるので、余分な表現はいきおい削らざるを得ない。自分で作ってみるとすぐに理解されるのは、何かを見て、心が動いて、それを詠もうとするとき、対象「それ」について「私は〜と思った」という文言を入れる余裕がないことだ。自分の感じを伝えるには、感じた対象そのものに「私性」を託すことになる。「対象=私」になったとき、句ができた、と感じるようだ。

第一回の句会を終えた際、句会以外でも句作するよう指導され、いくつか師に見ていただくと、技術上の添削とともに「これはいいですね。松」とか「これは竹」「梅」とか感想を言ってくださる。おもしろいのは、読んでその人となりが思い浮かぶような句でなければ、松竹梅のどれでもなく「無」という評価がつくことだ。これは武術の本質をあらわして興味深い。入神のためには我が邪魔になるけれど、何よりおいて表現されなければならないのは自分であること。つまり「我執を捨て自我を確立する」だ。

その後、師と「俳味とは」「良い句とは」・・などのいきなり深いテーマで数度対話しているが、それらについてはまた追々。

まだ始めてひと月経つか経たないかなのに、ガチで取り組むとは恐ろしいもので、受信センサーの感度が上がったというか、鑑賞眼を得て芭蕉やら寺山修司やら古今の句が心に沁みるのだった。いいと思う句はたしかに、事物の描写から「感じ」が伝わり、時空を超えてわがこととしてその「感じ」を感じる。稽古のためはもちろんだけど、単純に私もそんな句がつくりたい。

我 ら し く な き は 無 な り と 師 父 の い う