弟子のSです

武術の稽古日誌

報酬系の是非

去年の今頃は「出稽古だーー!!」とカフェでバイトしていて途方もなく忙しく、お祭り騒ぎのような毎日、シフトを終えて飲む一杯のアイスコーヒーは極上の美味であった。しかし、このわかりやすい報酬系の至福は何かちがう、武術とちがう、という感覚が常にあった。 がんばった時だけご褒美をあげていると、ご褒美がないとがんばれない体になり、ご褒美に釣り合わないほどのがんばりも出来ないのです。 がんばってようが、がんばってなかろうが、自分にはご褒美をあげることが大事です。 酒呑みになぞらえると、佳き日だからビールがうまいのでなく、ビールがうまいから佳き日、そういう順序であるべきだと思うし、その境地を得ようとするのが私の行く道だと思う。たとえ佳き日でなかろうと、ビールをうまいと飲める自分を守ること。 しかし報酬系のシステムから外れて自分にご褒美をあげるのは存外難しい。がんばっていない自分を褒めるより、ちっぽけなゴールでも、確たるものに向かってがんばった自分を褒める方が、今のところ心情的に「自然」だからだ。そこには「がんばらなかった自分よりがんばった自分の方が良い」「達成しなかった自分より達成した自分の方が良い」という強固な価値観の刷り込みがある。 大体なんというか、「ご褒美」という言葉自体が、報酬系を感じさせてさもしいではないか。 カフェのバイトは結局そのあと辞め、今は元通りの、家にいて得意な仕事で稼ぐストレスフリーな生活に戻っている。そこそこ快食快眠ではあるけれど、バイト後のアイスコーヒーほどの甘露にはその後出合っていない。あのコーヒーは「大変」とセットだったから、あんなに美味しかったんだ。そこに違和感を覚える程度には武術に近づいているってことで、いいのかな・・。 武術の要求は、自分を含めた誰の評価からも、どんな報酬系からも自由になることだろう。そんなの無くてもご飯がおいしく、よく笑って、ぐっすり眠れる。人の評価や報酬は後からおまけでついてくるもので、ついてこなければ「それがおれの実力」。これはいつか師が仰った。すがすがしくて、男らしくて、好きな言葉だ。 評価も報酬もいらない。心からそう言える自分になるには。 「評価」「報酬」といったキーワードを考える上では、俳句についての次の言葉も示唆的である。 世界の誰一人認めなくても良い句はあるし、世界の全員がいいと言っても駄句はある。