弟子のSです

武術の稽古日誌

稽古メモ(俳句編)

前々回の記事に「Sさんは遊行ではどうもうまくいかない」と師に言われたと書いたが、何がうまくいかないのですか、と尋ねると「こんな調子では、あなたが”我”から自由になるには、懸命にやっても10年かかる」とのこと。

「我」から自由にならないとなぜ困るかについては別稿にゆずるとして、とにかく武術の修行とは、「我」から放たれ、「らしさ」を確立しようと進んでいくものだ。

俳句はそのためのよい稽古になるはず。「我」が出張っては、つまり独りよがりでは伝わらないし、「らしさ」がなければ、そもそも創作する意味がないからだ。

自分で作ってみるとわかるけれど、思いや感じをよく表現するには、画家が制作中にカンバスから離れて絵を確かめてみるように、没入しがちな「我」とは別の視点から句を眺める癖をつける必要がある(そうしないスタイルもあると思うが)。客観視というスクリーニングを経ない句は、私の場合、あとから読むとどうも「痛い」のです。

本を読んだり詳しい人に尋ねると、芭蕉にせよ子規にせよ寺山修司にせよ、俳人は本来の気質としては我の強い人が多いようだ。しかし名句とよばれるものを鑑賞すると、その「我」が「普遍性」にみごとに昇華している。たとえば

行 く 春 や 鳥 啼 き 魚 の 目 は な み だ

この句に芭蕉はいないけれど芭蕉の「感じ」はある(それしかない、というか)。別離の悲しみ、それが伝わるのは共鳴する要素が私の中にあるからだ。言葉遣いの工夫によって、芭蕉の我と私の我が句を介してつながる。これが師の仰る「術」の本質かと思う。

句会は三回目を迎えた。http://kukaiki.jugem.jp/?eid=7

この日のテーマは「贈答句」。なんと師に、私に宛てて二句詠んでいただいた。

直(す)ぐ に 立 ち 道 な き 道 を 歩 む 人

固 き 草 嚙 み 続 け た る 山 羊 に 似 て

私には「直立」のイメージがあるらしい。そうなのか〜。

私は洗足池のピエール氏に二句贈呈した。お中元のキャッチフレーズではないけれど、贈っても贈られても嬉しいのが俳句と知る。先生ありがとうございました。

ひととおり創作を終えたあとの雑談からも、「我」からの自由にかかわる新たなヒントを得、うーんと考え込みながら帰る。