弟子のSです

武術の稽古日誌

俳句詠みは戦士である

前回の更新から今までのこと。

カルロス・カスタネダ『呪術師と私』読む。インディアンの呪術師に弟子入りした人類学者の記録で、二部構成のうち、著者が合理的説明を試みた後半部分により「最上の題材について書かれた最悪の本」と批判を受けたものだという。私のブログも似たようなものかも・・。
しかし巻末の片桐ユズル氏(ボブ・ディランの訳詞で有名な翻訳者だ!)の解説が温かい。カスタネダの飲み込みが悪かったからこそ呪術師はいろいろ喋らざるを得ず、でなければ、このような本来非言語的な精神拡大経験の意味を言語化して本にするなど至難の技だったろうと。
その通り、二人の掛け合いがおもしろく、早速続巻『分離したリアリティ』を図書館から借りてきた。

先週の火曜日には深大寺で句会があった。当日の模様は師による句会記に詳しいが、私こと「葩」の句の出来は今回も良くなかった。独自性に走りすぎて句意がさっぱりわからないと言われる。(洗足池のピエールさんだけ「僕は好きですけどね。夜9時枠のドラマで主役のガッキーが冒頭でこの句を詠んだらすごい高視聴率を稼ぐと思う」と独自なポジティブコメントを下さった。)

金曜稽古の前後に座学を受けたり、自分でも考え、句作上の問題点の理解は進んでいる・・と思う。
カスタネダによれば、呪術師の教えの目標は「知者になること」で、知者は「戦士」だそうだ。これは刃物を安全に扱い、タオルを武器に変える武術の方向性と合致する。生殺与奪の鍵を握るのは賢さと愚かさである。私、お利口になりたい。
すぐれた俳句詠みはいうまでもなく知者であろう。カスタネダを紐解きつつ、「だから俳句詠みも!」と戦士の自覚が芽生えるのだった。