弟子のSです

武術の稽古日誌

「古武術介護とセクハラ」を読み解く

元々のツイートは、ある女性がヘルパーの資格を取ろうとした際、学校から古武術介護の講座の受講を勧められ、その利点として「女性は力が入れにくい(から体の使い方の要領を学べる)」と「古武術介護を教わったと利用者さんに伝えるだけでセクハラが減る」と案内された、というものだった。それってなんだかねえ、という彼女に師が同調のリプを送ったという次第。

そのリプで師が言及し、後々もその論点に戻そうとしていたところの問題は「古武術介護をそのような切り口で売り出すのはいかがなものか?」ということである。

ツイッターには「古武術介護を教わったと利用者さんに伝えるだけでセクハラが減る」という文言に対する反応が溢れていたけれど、師の問題とするのはあくまで「その文言を介護の専門学校がアナウンスして受講者を集めていること」だったと思う。

「その文言を介護の専門学校がアナウンスして受講者を集めている ’事実’」とは書かない。そのやりとりが受付で実際にあったかどうかもはっきりしないからだ。ここでは、古武術介護がブラフに有効と謳って受講者を集めている学校があると仮定し、なぜ武術家がそれに異議を申し立てるかの説明を試みていこうと思う。その試みを通じて「武術とは何か」を明らかにするためである。それは同時に、介護におけるセクハラ問題についての武術の考え方を示すことになるだろう。
以下、あくまで師のツイートを基にした一弟子の考察であることを先におことわりしておく。

1「古武術介護」がブラフに有効、とアナウンスされるとなぜ「武術」が困るか

ブラフに有効なのは何も「古武術介護」にかぎらない。世間で「何だか強そう」と思われるものなら柔道でもレスリングでもハンマー投げでも、何でもいいのだと思う。しかるに、なぜ武術家だけがそれはやめろと声を上げたのか。師の言葉をそのまま引く。

武術は明確に暴力です。暴力じゃないというなら武道を標榜してよいはずで、武術という名称を使う時点で実用の技術であることを含んでいると言っていいでしょう。だからこそ、世間にその存在を認めてもらうのが危うい立場です。その危ういバランスの中で暴力を研究し、殺法の最適解を追求しているが、それを実用することはないしその研究は社会に還元される、ということを示さないと武術という文化は抹殺されるでしょう。

師は武術が滅ぶという危機感を強く持った方なので、ただでも「単なる」暴力・殺傷術とみなされがちなものを、安直な示威に使われるのはさらなる誤解を招き、存否に関わると憂える。「古武術介護がブラフに使える」として、世間に「古武術介護」と「武術」が別物とわかる一般人などそうはいないからだ。
また古武術介護の方でも、殺法の最適解を追求するなど武術の剣呑なイメージを人に持たれたら困るだろう(介護なんだし)。つまり、武術について「古武術とはこういうものだ」と認知されることも、古武術(介護)について「武術とはこういうものだ」と認知されることも、双方にとって不都合ということである。

あるいはこうも言えるだろう。この項の冒頭で「何だか強そう」と思われるものなら何でもブラフに使い得ると書いた。「一人暮らしの女性の干す男物の下着」のようなもの、というツイートがあったが的確な例えだと思う。

しかし競技でも実用でも、いわゆるマーシャルアーツを習得しようと真面目に取り組む人々にその動機を問うて「〇〇やってると言うだけで強いと思われるから」などと答える人がいるだろうか。違和感があってとても言えないのではなかろうか。当然のことで、いやしくも戦闘術である以上、師の言葉を要約すれば

はなから不思議の勝ちだけを拾いに行くという発想、ブラフが通じなくて相手が勝負を降りなかったら終わりになる戦術を主軸とするなどという事はできない。そんな確定要素のないものをセオリーとして確立すべきではない。

からである。
「時に」ブラフに有効でも、それを謳い文句にしては情報として欠落がありすぎる。ブラフをベランダの防犯用パンツに喩えることはできても、マーシャルアーツを防犯用パンツに喩えることはできない。武術が有効性を謳うべきはもっとずっと高次のものである。

2 「介護におけるセクハラ」についての武術の考え方

自分にも老いた母がいるのでわかるけれど、歳をとると元の性格が際立ってくるというか人間性がむき出しになるというか、余裕がなくなって繕ったり周囲に目をやったりができにくくなるようだ。セクハラが介護職の女性の抱える大きな悩みであることを今回の数々のツイートで知ったが、高齢者と向かい合いケアするにあたっては、セクハラに限らず不快な瞬間が数多くあるだろうことは容易に想像がつく。仕事であれ身内のことであれ、介護というのは、放っておいたら、しみじみとうんざりすることの連続なのだろう。

そこで「ブラフでも何でも使えるものなら使えばいいじゃないか」となるのだろうけれど、うんざりな行動をとりあえず制する、という「対相手」の発想は、拘禁や虐待など間違った方向に進みがちというのは経験の教えるところだ。介護者の心の健康のためにもよろしくないと思う。負けん気の強い母に私も時々キレるけれど、負けん気に負けん気で対していると場は殺伐とするばかりである。
介護者と被介護者が「どちらが強者か」を争っても、「どちらが(守られるべき)弱者か」を争っても、幸せな結論にはおそらく至らない。師がくりかえし主張していた「セクハラをなくせばすむ問題ではない」とは「対立構造の中で優位に立つという発想では解決しない」ということだと思う。

武術では、相対性から自由になる、ということを考える。勝利とは何らかの敵を破ることだが、競技や戦闘における勝利が「対手を破り、相対性の中で優位に立つ」ことであるのに対し、武術の求める勝利は「相対性を破る」こと、つまり対立構造自体をなくすことを指す。

したがって武術の観点からは、介護における介護者の敵手は被介護者ではない。介護という難儀な状況そのものだ。「勝つ」とは被介護者との敵対関係をなくすこと、介護に勝つことである。被介護者をやっつけず、介護者がつぶれず、双方がともに守られて、介護という機会・時間をお互いにとって穏やかなものにするにはどうしたらよいか。相手を拒まず、共生しながら意を通すにはどうしたらよいか。

稽古では「自己を従とし客体を主に」ということを繰り返し言われる。武術は敵との生きるか死ぬか(殺すか殺されるかでなく)の戦いを通して、太極拳の「捨己従人」のように、相手を受容することを術として体系化した。しかし、それは「セクハラされても耐えろ」というようなことではない。

武術で護身するということは必然的に「自分の思う通りに振る舞う」こととは対極にある。・・(中略)・・対極でもないか。生きたいというのが最大の欲求だから「何一つ思い通りに行かない局面でも自分の思い通りに振る舞いたい。そのためにはまず自分を中心に考えるのをやめなければいけない」という複雑な構造になるだけ。

たとえば傾聴する・理解しようとする・スルースキルを磨く・ゆるす・・・被介護者を受容し、対立をなくすとは、あきらかに介護者に(も)利のあることである。もちろん折り合うのはそうそう簡単なことではないだろう。しかし私も、葛藤を抱えた母娘関係ではあるけれど、いよいよ介護となったら精一杯そうした努力をしようと思う。この戦いは敵手のいない、相対性を離れたものだから、志した全員が勝ちを収め得る。

3 おわりに

以上、介護のセクハラ問題を足がかりに武術とその立場や考え方について説明してきた。読んでいただいて了解されたかどうか心許ないが、武術は「考え方(意識、認識)」が本流で、ひとつ上の領域に認識を引き上げる、ということを日々やっている。その発現としての技やスタイルはそれぞれの個性に任されている。だからこの介護の話題でも、武術の求めるものが対立関係の解消だ、というところまでは導かれるけれど、そこからどうするかは「あなた次第」だ。

対敵手でなく対立構造そのものに勝つ、という考え方は、介護にかぎらず社会の多くの人間関係や事象に適用でき、普段の生活に幅広く役立つ。だからこそ師は「武術は殺傷術ではあるが、その研究は社会に還元される」と仰るのだ。私自身、師から利己的だと常に破門されかけているような人間だけれど、それこそ危ういバランスの中で、自分の学びが周囲の人々や社会によく還元されるとゆるぎなく思って精進している。

勉強が本分の私だけでなく、ツイッター上でこの話題を目にされた方それぞれに何かしら学びがあればよいと心から思う。